日本ハム元オーナーの大社啓二氏(63)が、伝統球団にとって激動の時代となった平成を振り返ります。まずは、2004年(平16)に本拠地を東京から北海道へと移転した経緯について。当時の経営状況や、日本ハム創業者である初代オーナー大社義規氏の深い野球愛も踏まえ、複数の候補地から北海道を選んでいく背景について語りました。

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「平成」という時代は、パ・リーグにとって、日本ハムにとって、大きな転換期だった。老舗球団といえる日本ハムを支えてきた大社の回顧には実感がこもる。

大社 あっという間の30年でしたね。パ・リーグで共通しているのは、球団経営が非常に苦しかったということです。日本ハムにも同じことが言えました。

かつての本拠地だった東京ドームが開場した1988年(昭63)に250万人だった観客動員数が、平成に入ると徐々に減少していった。99年には150万人を割った。当時本社の社長で球団取締役でもあった大社は、広告宣伝をうたい文句に赤字を補填(ほてん)してきた時代の終焉(しゅうえん)を痛感していた。

大社 会社はどんどん成長していく中で、日本ハムという名前を認知していただけるようになったら、これだけ赤字の球団を単に広告として持っている必要があるのか。要するに、広告宣伝という役割は償却したのかもしれないと思うようになった。球団を、経営的に経済性を高める。球団の所有価値というものを、変えていかないといけないのではないかと、考えるようになったのです。

北海道への本拠地移転構想が表面化したのは02年3月だった。その約2年前から、大社は当時の球団社長だった小嶋武士と移転先について話し合いを重ねていた。日本ハム本社の前身会社が設立された徳島県のある四国や、川崎市、仙台市などを移転候補として挙げていたという。

大社 野球興行ができるスタジアムがある地域、そして地域フランチャイズが確立できるところはどこかなと複数をあたってきました。しかし、当時言われたのは商圏人口100万人以上でないと1カード、3連戦が組めないということでした。当然、四国についても真剣に議論をしました。四国4県を束ねて本拠地とする案や、岡山、高松の「岡高」ではどうかなども話し合いました。ただ、当時の野球協約では1都道府県、1フランチャイズということで、不可能でした。そこで川崎市や現在楽天の本拠地である宮城球場(当時)も調査しました。

多角的な視点で調査を進めながら移転先を探す中で、大社が偶然に訪問した札幌が求めていた条件に見合った。

大社 まず、多目的ドームがあったというのは大きかったです。我々の調査では、札幌の商圏人口という観点からもクリアできるという見立てでした。さらに、我々は北海道での事業として、養豚、養鶏などの処理工場があり、古くは馬肉の集荷場から今の旭川工場になったということで、意外とご縁のある地域でした。あとは野球興行ができるというバックヤードがそろえば(北海道移転を)決断することはそれほど難しいことではなかったように思います。

内部での調整を済ませ、日本ハム創業者で、初代オーナーでもあった大社義規へ伺いを立てた。

大社 わたしが報告に行ったら、最初に言われたのは「北海道で野球ができるのか?」と目を丸くしていました。札幌に全天候型、ドーム球場があることを説明しました。すると「そんなんがあるんか。それはええな。ところで、いつ勝てるようになるんだ」と言う。とにかく勝つということが、一番大事な人でした。それまでの30年間で1度しか優勝できなかった。わたしが「勝てるような球団にしますから」と言ったら、オーナーは「そうか、そりゃ、ええこっちゃ」とおっしゃってくれたのです。でも、どう勝つのかなんて、ノーアイデアでした。まさか、あの状況で「勝てません」なんて言えないでしょう(笑い)。

大社にとって叔父にあたる初代オーナーは「球界一、球場に足を運ぶオーナー」と称された。野球を愛し、ファイターズを愛した男。その先代が73年に日拓を買収して30年目。東京から北海道への移転は、日本一の頂点に上り詰めることを条件に決まったのだった。(敬称略=つづく)【寺尾博和、木下大輔】

◆大社啓二(おおこそ・ひろじ)1956年(昭31)1月7日、香川県高松市生まれ。中大法学部を卒業後、80年に日本ハム入社。96年に40歳で社長就任。02年8月、子会社の不祥事が発覚し、社長を引責辞任した。現在は取締役専務として海外事業本部長を務める。球団では05年6月にオーナー就任。12年3月からオーナー代行となり、16年3月からは非常勤の取締役に就任した。

00年1月、日本ハム名護キャンプの視察に訪れた大社義規オーナー(右)。左は田中幸雄
00年1月、日本ハム名護キャンプの視察に訪れた大社義規オーナー(右)。左は田中幸雄