日本ハム元オーナーの大社啓二氏(63)が、伝統球団にとって激動の時代となった平成を振り返ります。まずは、2004年(平16)に本拠地を東京から北海道へと移転した経緯について。当時の経営状況や、日本ハム創業者である初代オーナー大社義規氏の深い野球愛も踏まえ、複数の候補地から北海道を選んでいく背景について語りました。

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「スカウティングと育成で勝つ」。日本ハムが永続的な編成方針をブラッシュアップさせたのも、平成の時代だった。転機となったのは、神奈川・川崎にあった日本ハム多摩川球場から千葉・鎌ケ谷のファイターズタウンへ育成拠点を移転させた1997年(平9)。大社啓二が回顧する。

大社 多摩川時代は、練習環境として決していいものではありませんでした。やはり育成をしていくための本拠地、ベースキャンプがいるということになったのがきっかけです。

59年から96年まで2軍の拠点だった多摩川球場は、河川敷にあった。大雨が降ると河川の増水でグラウンドは使用できず、土砂で埋もれることもあった。そこで、92年からは相模原球場で2軍戦を開催。練習場となった多摩川球場近くの寮から遠征せざるを得なくなるなど、育成拠点としては厳しい環境だった。

現在、新人合同自主トレが行われている鎌ケ谷は両翼100メートル、中堅122メートル。かつての本拠地、東京ドームと同サイズで設計され、寮と室内練習場も敷地内に併設。若手選手が野球へ取り組む環境が整った。

大社 鎌ケ谷が出来てから、選手を育成して勝つという意識が球団内でも高まっていきました。ただ、最初はうまくいきませんでした。球団に、育成をして勝つための「仕組み」がなかったからです。その中で04年に1軍が北海道へ移転した。鎌ケ谷できちっと育成し、戦力として1軍へ選手を送り込むには、ある程度のルールが必要でした。

指導者の主観だけではなく、客観的な数値も含めて選手評価の指標とする-。仕組みを作り上げた中心人物がチーム統轄本部長兼GMの吉村浩(54)だ。

05年にGM補佐としてフロントに加わった。99年から3年間、デトロイト・タイガースでGM補佐などを務めた際に学んだノウハウを落とし込んだ。

大社 吉村さんが加わって、スカウティングの仕組みやベースボール・オペレーション・システム(通称BOS=ボス)という定量的なデータで選手をきちっと評価する仕組みを築いていきました。例えば、ボールが速いというのは、どれくらい速いのか。全部を数値化した上に個々の選手を見抜く力、いわゆるスカウト力を乗せて、若い選手をきっちり鍛えて1軍で勝つ。これが経済的にバランスが取れると考えています。いつも選手のパフォーマンスがコストの中で吸収できます。我々の経済的な部分の効率につながっていると思います。

ぶれない球団の方針をベースに、フロント陣が築いた育成システムから育った戦力を現場の監督が束ねる。強い組織力で常勝球団へと変貌していった。

大社 例えば、今の栗山監督と元監督のヒルマンがやっていた野球は全く違うと思います。それは各監督の手腕でいろいろあっていいですが、スカウティングと育成で勝つという基本的なチームの編成方針、一塁までの全力疾走はチームの哲学、これは絶対に変えてはならないと考えています。我々は揺るがない。その揺るがないリーダーが今は吉村さんです。結果として勝ったから言えることかもしれませんけど、それが我々の強さじゃないかと思います。(敬称略=つづく)

【寺尾博和、木下大輔】