全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える来年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第3弾は、板東英二氏(77)の登場です。徳島商のエースとして活躍し、1958年(昭33)魚津との準々決勝では、甲子園で初の延長引き分け再試合を経験しました。記憶と記録に残る怪腕の高校時代に10回の連載で迫ります。


58年8月、第40回夏の甲子園大会6試合で大会新の83奪三振、魚津との延長18回で1試合最多の25奪三振を記録した徳島商・板東英二
58年8月、第40回夏の甲子園大会6試合で大会新の83奪三振、魚津との延長18回で1試合最多の25奪三振を記録した徳島商・板東英二

 エライヤッチャ! エライヤッチャ! ヨイヨイヨイヨイ…。♪踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、♪同じ阿呆なら踊らにゃ損々…。甲子園のスタンドに徳島名物「阿波踊り」の音頭が鳴り響く。笛、かね、太鼓、三味線などのおはやしにのった踊り子たちの歓喜の声援が繰り広げられた。

 今から約60年前の58年8月17日。徳島新聞の朝刊は「大熱戦に酔う甲子園」「6万観衆感激の声援」「球史に残る3時間半」の大見出しとともに現地の盛り上がりを報じている。

 8月16日。夏の甲子園準々決勝、徳島商-魚津は高校野球史上まれにみる激闘となった。延長18回の末、0-0の無得点のまま、引き分け再試合に。その熱戦の主役を演じたのが、徳島商エースの板東だった。

 魚津の村椿輝雄と投げ合った一戦の試合終了は午後8時3分だった。当時の新聞では、3時間38分に及んだ激戦の球審相田暢一は「こんな迫力のある投手戦は初めてだ。球史に残る熱戦の主審(球審)を務めたことは一生の思い出となりましょう」と感激した、とある。後に会長に就いた大会副会長の佐伯達夫も「こんなに両軍技術の限りを尽くした試合は40回にのぼる大会球史をひもといてみても見当たらない。勝負はともかく最終回まで息をもつかせぬ好プレーの連続に敬意を表したい」と、試合後の取材に語っている。

 板東は再試合を含め、大会6試合、62イニングを投げ抜いた。過酷に思える状況も、本人の感想は意外なものだ。

 板東 まったく疲れはなかったですね。甲子園のナイターは涼しゅうて、涼しゅうて…。ベンチにあった氷入りの麦茶なんて飲んだことなかったんです。ごちそうですわ。勝ちたいじゃなくて、負けたら怒られるのがいやでいやで。打たれるとか打たれないじゃない。とにかく三振をとらんと怒られる。だってピッチャーは僕しかおらんのですから…。

 魚津戦の延長18回で板東が奪った三振は25だった。

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 延長18回引き分け再試合。甲子園の延長規定による引き分け再試合の史上初のケースだった。この一戦から約4カ月前。4月の四国大会で、板東は2試合続けて延長戦に突入した試合のマウンドを守り続けた。中1日で延長16回と25回の計41イニングを投げた。高校球児の健康管理を重くみた全国高等学校野球連盟(現在は日本高野連)は「延長18回引き分け再試合」のルールを定める。つまり、ルール改正のきっかけになった板東は、自らが甲子園で適用1号になったのだ。

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 戦後の名残があるなか、第40回の節目となった58年夏の甲子園。大会史上初めて、全国各都道府県に沖縄を加えた代表47校が参加した。延長18回とはいえ、板東の1試合25奪三振はまさに快投。大会通算83奪三振は早実・斎藤佑樹の78を上回り、いまも大会記録だ。

 板東 なにが感動するかといったら入場行進ですよ。「県立徳島商業高等学校~」というアナウンスとともに、みんなで「右っ! 右っ!」って言ってるのに間違うやつおるからねぇ(笑い)。それと日章旗がポールに揚がったときです。僕は小さいころから貧乏でした。ほんとによく我慢しましたもんです。それが後々生きた。満州で生まれて日本に引き揚げてくるまでの苦しさ、徳島に住んだ後も貧乏でした。あの貧しさを乗り越えたのが原点でしょうね。

 大記録を築いた男を語るとき、苦難に満ちたルーツは避けて通れない。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】



 ◆板東英二(ばんどう・えいじ)1940年(昭15)4月5日、満州(現・中国東北地方)生まれ。徳島商から59年に中日入団。主に救援投手として活躍し、69年引退。通算435試合、77勝65敗、防御率2・89。球宴3度出場。引退後は野球評論家として活躍。球界の内幕を描いた著書「プロ野球 知らなきゃ損する」も話題に。また芸能界にも進出し、89年には映画「あ・うん」で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を獲得するなど、多彩な活動を展開。

(2017年4月28日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)