全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第8弾は大野倫氏(44)です。沖縄水産のエースとして準優勝に導きながら、大会後、右肘の骨折が発覚しました。投手生命を失った悲劇のヒーローは、どのような高校時代を送り、どのように当時を振り返るのか。全12回でお送りします。

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 大野は今でも思い出す。あの叫び声は、真夏の甲子園に匹敵するほど強烈な印象が残っている。3年生の6月…沖縄の夏は早い。もう県大会が目前に迫った時期だった。

 全体練習を終え、他の選手が自主練習する中、大野は寮の自室で右肘をアイシングしながら、寝転がっていた。右肘の激痛に悩まされていた。だが、監督の栽弘義にも、チームメートにさえも隠していた。エースである自分の肘の故障が、甲子園を、日本一を目指すチームにどんな影響を及ぼすのか分かっていた。とても口には出せなかった。

 そんな時、声が聞こえた。怒気を含んだ仲間の声だった。

 「ふゆーなー」

 沖縄で「怠け者」を意味する言葉だった。

 大野はベッドから跳び起き、部屋を飛び出した。振り返ると、チームメートの知念直人が走ってくる。草刈り鎌を手に持って襲いかかってきた。大野は逃げた。はだしで寮を飛び出し、隣接する野球部のグラウンドまで全速力で走った。

 息切れした大野がグラウンドに倒れ込むと、知念は鎌を放り投げて馬乗りになった。

 「おい、しなすんどー(殴るぞ)。大事な時期なのに、部屋でお前はずっと何をやってる? ボールも走らんのに、練習もせんと氷ばっかりして。俺たちは甲子園のために3年間やってきたし、草刈りや球を拾ってる。それなのにエースがこんなんで大丈夫か?」

 大野は「痛い」と感じた。体ではない。知念の言葉が胸に突き刺さった。

 知念は腰のヘルニアのため、すでに発表されていた夏の大会メンバーから外れていた。草刈りや球拾いなどで陰からチームを支えていた。

 知念 知らなかったんです。大野が肘を壊しているなんて。草刈りをしていたら、大野がグラウンドにいないことに気付いて。聞けば寮で休んでいるよと。この頃、彼は不調なのにまったく練習していなかった。こっちは夢の甲子園のために雑用に耐えているのに…と思ったら腹が立った。

 大野は春先から肘の痛みと闘っていた。この頃は練習試合でもめった打ちを食らってばかりで、ライバル那覇商には夏の大会を前に4連敗を喫していた。

 大野 チーム内に「このままでは勝てない」という雰囲気が充満していましたね。当時の沖縄水産は、甲子園に出るのは当たり前。そのプレッシャーもあって、みんなが殺気立っていた。だから、大会前に肘が痛いなんて言えなかったし、僕も言うつもりはありませんでした。

 彼の沈黙が、チームメートとの間に亀裂を生んだ。知念に責められた時も打ち明けなかった。沖縄大会の途中から痛み止めの注射を打って臨んだ。甲子園では栽から注射を止められ、痛みを我慢して投げた。1人でマウンドを守った。

 甲子園が終わった後に検査したところ、右肘は剥離骨折をしていた。亀裂も入り、軟骨も欠けていた。甲子園の決勝戦が最後のマウンドになった。大野の投手生命は、甲子園で終わった。骨が折れたまま投げた投手。過酷な連投による悲劇のヒーローとして、甲子園の歴史に名が刻まれている。

 なぜ大野は、そこまで投げ続けたのか。原点は入学時にさかのぼる。偶然にも、大野が草刈り鎌を手にしている時だった。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

 ◆大野倫(おおの・りん)1973年(昭48)4月3日、沖縄・うるま市生まれ。沖縄水産では90、91年と2年連続で夏の甲子園準V。甲子園通算12試合で52打数23安打(打率4割4分2厘)、12打点。投手で出た91年は6試合すべてに完投して5勝1敗、53回を投げ自責点27(防御率4・58)だった。九州共立大へ進学し2年春から4番として活躍。大学通算18本塁打。95年ドラフト5位で巨人入団。00年オフ、吉永幸一郎捕手とのトレードでダイエー移籍。02年引退。プロ通算成績は実働4年で24試合、31打数5安打(打率1割6分1厘)、1本塁打、2打点。現在は九州共立大の職員を務め、ボーイズリーグのうるま東ボーイズでは監督として中学生を指導。プロ現役時代は185センチ、85キロ、右投げ右打ち。

(2017年6月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)