大野は草刈りをしていた。沖縄水産に入学したばかりの春だった。鎌を持って慣れない手つきで刈っていると、監督の栽弘義も隣で草刈りを始めた。しばらくは草が切れる音だけが響いていた。

 ふと栽の手が止まり、小さな声が聞こえた。「お前らの時に日本一になりたいなぁ」。大野は一瞬、耳を疑ったが、聞き返すことはできなかった。

 大野 正直、監督は何を言ってるんだ? という感じでした。当時の沖縄代表はやっとベスト8、ベスト4に入った頃。沖縄の高校が優勝した歴史がなかったし、受け入れるどころか、理解できませんでした。

 それだけの会話だった。理解もできなかった。だが、大野の脳裏に「日本一」という言葉が刻まれた。そのキーワードを思い出せば栽の行動が理解できた。

 栽は試合だけでなく、練習でも一切の妥協を許さなかった。練習試合でも失投すれば「お前は甘いんだ」と殴られた。200球程度の投げ込みは当たり前で、300球、400球を投げる日もあった。

 大野 監督は沖縄野球の発展を誰よりも願っていたと思うんです。

 大野が沖縄水産に入った時、沖縄の高校が初めて甲子園の土を踏んでから、まだ31年しかたっていなかった。58年の40回記念大会に首里高が出場した時、選手たちはパスポートを手に甲子園に向かった。63年に首里高が初勝利を収めたが、この頃の沖縄にとって、甲子園とは参加することに意義があった。

 それでも、68年に興南が4強入りすると、その後も豊見城、沖縄水産などが8強に進出。88年には沖縄水産が4強入りし、時代が変わりそうな雰囲気が漂い始めていた。

 栽は沖縄で生まれ育ち、糸満高を卒業した後に愛知・中京大へ進学した。本土での生活で、沖縄への偏見や同情心を感じた。沖縄県人にも本土や都会に対する引け目や劣等感があった。栽は、これを打ち破りたかった。栽が勝利にこだわる理由は、こんな背景があったのではないか。大野はそう考えている。

 大野 指導者として沖縄に戻ってきた時「このままではいけない」と思ったんでしょうね。だから、日本一と口にして、「甲子園で勝つんだ」と伝えたかったのかなと。沖縄の子でも、やればできるんだと。

 栽は厳しい一方で、人間味あふれる指導者でもあった。正捕手候補ながら腰のヘルニアでベンチを外れた知念直人は、球拾いやグラウンド整備などをしている時、栽に声をかけられた。「優先順位を考えてやりなさいよ。社会に出た時に大事になるし、役に立つことだから。そして、いつか人を雇えるぐらいの人になりなさい」。知念はこの言葉を忘れられない。

 知念 裏方の仕事を見ていてくれたんだなぁと思います。ベンチを外れても気にかけてくれた。

 能力がありながら、甲子園では投手で起用されなかった選手もいた。のちに知念は学校職員からその理由を聞かされた。栽は「甲子園で投げて活躍したら、あいつはどうなる? あいつの性格からしたら、調子に乗って、その後の人生が狂ってしまうかもしれん」と話したという。

 91年の沖縄大会の決勝戦。栽は優勝を決めたベンチ入りメンバーに「ベンチを外れた3年生にメダルをかけてあげなさい」と言った。栽は裏方の仕事ぶりを高く評価した。知念は「一生の宝物です」と今も大事にメダルを保管する。グラウンドでは鬼だが、選手の将来を見据える教育者でもあった。だから、選手は栽を信じ、付いていった。

 大野 僕は栽監督を信じていました。監督についていきさえすれば、絶対に結果がついてくると思っていた。今も仲間と会うと話すんです。つらい思いをしたけど、結果的に僕らは甲子園に行けた。それで話がまとまるんです。

 練習は厳しかった。大野は、OBで中日に入った上原晃にあこがれて入学を決めた。沖縄水産のユニホームにあこがれて入った仲間も多かった。だが、あこがれだけで耐えられる世界ではなかった。

(敬称略=つづく)【久保賢吾】

(2017年6月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)