ドカベン香川のパワーは疲れ知らずだった。1979年(昭54)夏の甲子園での注目度はNO・1で、常に体重の話題がついて回った。連日の取材攻勢に、決まって香川は「量ってないから分かりませんが変わってないです。やたら汗かくけど、その分おしっこに行ってないから減ってないですよ」とコメントした。

 体重は公称92キロ。この大会期間中、香川の担任教師だった佐藤久夫が、選手宿舎を激励に訪れた。

 佐藤 香川のマスコミ向けの体重は92キロでしたが、こちらが本人に「0・1トンちゃん」と呼んでも否定しなかったですからね(笑い)。彼は体重が落ちるとスタミナがなくなると言ってました。香川、牛島らはぼくが担任になって初めて送り出して卒業した生徒なので特に思い入れが強いんです。

 巨漢のスラッガーは2回戦の倉敷商(岡山)戦に続き、伝統校同士の好カードになった広島商との3回戦でもアーチをかける。1-1の同点で迎えた5回2死から左中間スタンドに運んだ。2戦連発は高校通算40本目。甲子園ではセンバツの2本塁打を含む4本目。甲子園4本塁打は、のちに「和製ベーブ・ルース」と呼ばれる1925年(大14)の第一神港商(現在の市神港)・山下実(慶大に進み、阪急などで活躍)に並ぶ54年ぶりの快挙だった。

 打たれた広島商エースで、現在は広島銀行勤務の中島信男は、甲子園が異様な雰囲気に包まれたことを覚えていた。

 中島 ぼくにとっての一番の球場は広島市民球場でした。でも甲子園は地鳴りがするようでスケールが違った。香川と牛島がアナウンスされたときはすごい声援で、グラウンドでは会話をしても聞こえないほどでした。香川に投げたのは見逃せば高めのボール球です。どこまで飛ぶんかなと思いましたよ。

 香川、牛島とマスク越しに勝負をした広島商捕手の勝田公裕(現NBS広島勤務)は、2人の性格の違いを察していた。

 勝田 こちらはキャッチャーですから打者に向かってけん制するようにささやくわけです。こちらの誘い水に牛島君はカッカしてましたが、香川君には一切無視されましたね。打たれたのはとんでもないアウトハイの大ボールです。度肝を抜かれたというか、かなわないと思いました。

 ドカベン香川の大砲ぶりは、これだけにとどまらなかった。準々決勝で初のベスト8に進出した比叡山(滋賀)戦の7回裏に3試合連続本塁打。打球は左中間ラッキーゾーンに飛び込んだ。7回表の守備でファウルチップを当てて右肩関節挫傷に見舞われた。バットを持っても痛みがあったのでベンチに引くことも考えられたが、本人が出場を直訴。7回裏の打席は初球狙い、1球で仕留めてみせた。

 大会史上初の3戦連発。投手としても活躍しつつ超高校級スラッガーだった早実・王貞治は春夏計3本、「怪童」といわれた高松一・中西太も計2本。香川は甲子園で5発目を記録したのである。当時の日刊スポーツの取材に王は「記録は破られるためにあるというが、飛距離といい、速度といい素晴らしい。大きな体のわりに俊敏で反射神経も抜群だ。プロに入ったら? う~ん、1億円かな」と目を丸くした。

 準決勝進出を決めた香川は校歌を救護室で聴いた。そして右肩を治療した後で「ホームランを打たないと『香川が打った』と言ってもらえない。またあした打ちますよ」と予告した。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年8月2日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)