1年をかけ、山本暢俊は評伝「嶋清一 戦火に散った伝説の左腕」を書き上げた。取材に半年をかけ、嶋の盟友であり、野球殿堂入りにも尽力した古角俊郎と何度も会った。後見人とも言える存在だった海草中野球部生みの親、丸山直広の長女、橋爪喜久子らとも会った。小学生のころ、嶋の足の上で遊んだ喜久子は、小さな足裏で感じた大きな足の温かさを86歳の今も覚えている。人々の心に、嶋は生きていた。

 評伝を書き終えた後、山本は夢を見た。枕元に、海草中のユニホームを着た嶋がいた。

 山本 ストッキングの3本線が見えたんです。それで嶋さんだと分かった。嶋さんはぼくのこと、怒ってられるんじゃないかなと思ってたんですよ。いっぱいプライベートなことを書いたから。でも、言葉は何もなかった。すーっと立っていて、1球振りかぶって投げてくれたんです。

 夜の闇を裂くように、白地に緑の3本線のストッキングをはいた右足が高々と上がるのを、山本は見たという。わずか1コマのフィルムしか残っていない嶋の投球フォーム。その“完全版”を見た。著者への返礼だったのかもしれない。

 山本 もしも言葉をかわせたならば、今の高校生に何を教えたいか、どういうことを語りたいか、今の高校野球をどう思われるかを聞いてみたかった。

 08年8月15日、甲子園で嶋の野球殿堂の表彰式が行われた。亡き嶋に代わり、元プロ野球コミッショナー根来泰周から花束を受け取った父、古角俊郎の笑顔を長男俊行は今も忘れない。青春の限りを尽くし、白球を追う。球児が享受する平和を、父俊郎は心の中で戦死した旧友に伝えていた。

 98年8月22日、第80回全国高校野球選手権大会決勝。横浜(神奈川)松坂大輔(現ソフトバンク)のノーヒットノーランが、59年前の嶋の偉業をよみがえらせた。和歌山・那智勝浦町の自宅のテレビの前で「松坂君、ありがとう」とむせび泣いた古角俊郎。以来、古角父子はずっと松坂の応援を続けてきた。顔立ちは違っても、人なつこい松坂の笑顔が、ロイド眼鏡を外した嶋の優しい顔を思い出させた。「1度も会ったことはないけれど、ずっと松坂君のファンですよ」と俊行は笑う。

 高齢になっても、古角俊郎は甲子園に足を運んだ。

 古角俊行 嶋がどこかで見てるからなって、ぼくに話したことがありました。

 ネット裏から古角俊郎は、別れたときの22歳のままの旧友の存在を感じていた。生きて戦地から戻れたら朝日新聞社の記者になり、高校野球を追う。それが嶋の夢だった。スタンドの片隅で、ロイド眼鏡を押し上げて顔に流れる汗をふき、スコアブックをつける嶋の姿を古角俊郎は探していたのかもしれない。「セイボー、そこにおるんか? 夏が始まったな」と懐かしい名前で呼びながら。

 「自分は何処までもプレートを死守するのだ」。日記に書いた覚悟の通り、嶋は全身全霊で快投を続けた。守備位置のセンターから古角俊郎はマウンドで躍る背番号1を見守り続けた。嶋清一は、不滅の大投手だった。(敬称略=おわり)

【堀まどか】

(2017年8月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)