122-0の7回コールド。東奥義塾対深浦(現木造高深浦)の史上最多得点差試合。当時、5回コールド制を採用していなかった青森県だからこそ生まれた記録ともいえる。優勝候補の一角だった東奥義塾は、初回から約1時間の攻撃で39得点。4番の珍田威臣(3年)は史上最多の11打数連続安打を含む、16打数14安打12打点で2度のサイクル安打。だが、圧勝ゆえの異変があったことも確かだった。2年後の00年に、5回10点差、7回7点のコールドゲームの規定が統一された。ルールも改正させたきっかけの1試合でもあった。

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 試合開始は午後2時33分。青森県といえど猛暑だった。1回表の攻撃を終え、全力疾走で最初の守備につく東奥義塾ナイン。その中でフラフラ状態でベンチに戻り、倒れ込んだのが三塁コーチを務めていた工藤大輔(3年)だった。脱水症状で救護室に運ばれた。強烈な西日も受けて約1時間、立ちっぱなし。声を張り、本塁突入を促すために思い切り肩を回し続けた代償だった。部長の大坊道夫(現同校非常勤講師)は今でも悔いた。

 大坊 審判たちは途中で給水はしていたと思うが、我々も彼のつらさ、異変に気づいてあげられなかった。結局、試合にも出場はできなかった。

 3時間47分のほとんどを攻め続けた疲労は、選手全員も感じていた。試合翌日にテレビや新聞で報じられると「弱った相手に、あそこまで攻め続けるのはいかがなものか?」の悪者扱いの論調も目に、耳にした。精神的負担も小さくなかった。

 大坊 深浦戦は、我々にとってはそんなに大きなことではなかった。小笠原一監督も「どんな相手でも全力プレー、全力疾走を貫く」と、テーマを掲げてやってきたので、その通り戦っただけ。でも選手たちには周囲の声に戸惑いや重圧も、あったんじゃないかとも思う。甲子園を狙えるチームでしたが、次の田名部戦でコールド負けした。相手投手も技巧派ですばらしく、打撃力も強かった。決して深浦戦の疲労が残っていたなんてことはない。

 くしくも、田名部は深浦監督の工藤慶憲(現青森県教育庁)が前年まで赴任していた高校だった。深浦の“リベンジ”を試合前に工藤に誓う田名部ナインもいた。運命のいたずらか。

 珍田 今でもたまに、何人かで集まりますが、深浦戦の話はあまり出ない。それよりも3回戦で負けたことが自分たちの3年間で一番大きいこと。

 大会後、日本高野連が動いた。青森県高野連所属全校の指導者に向け、アンケート提出を求めた。コールド制度についての自由意見だった。青森県高野連事務局長の渡辺学(現青森県教育庁)は5回コールド反対派だった。

 渡辺 5回で終わってしまうと、1打席しか立てない打者が出る可能性がある。3年間の集大成がそれで良いのかと今でも思う。タイブレーク制なども含め、選手の体のことを思えば仕方がないのかなとも思うが…。青森県の記録はあの試合からたくさん作られている。当時は「公式記録として認めてもいいのか?」なんて議論も出ましたけれど、両チームが必死に戦った結果ですから。

 工藤 私は今でも7回コールドのままでいいのかなと思っています。選手の頑張りで一気にひっくり返っている例もありますよね。

 結果は5回15点差などの意見もあったが、大多数が5回コールドに賛成だった。日本高野連での協議でも、全国のルール統一派が大多数を占めた。もし、現行制度だとしても93-0の5回コールド。それまでの記録は36年埼玉大会での豊岡実72-0松山中。史上最多得点差には違いない。(敬称略)【鎌田直秀】

98年当時、東奥義塾の部長を務めていた大坊道夫氏
98年当時、東奥義塾の部長を務めていた大坊道夫氏