群馬に、高校野球に人生をささげた監督がいた。稲川東一郎は戦前戦後を通じ、桐生高校を40年以上率い、甲子園に24回出場した。代名詞は、通称「稲川道場」と呼ばれた野球場。54年に自宅を改装し作られた道場は、近隣の野球少年の憧れだった。桐生高OBで青学大監督の河原井正雄(63)は菓子を詰めた風呂敷を背負い、道場へ通ったことを思い出す。「同じ町内だったから幼稚園のころ毎日遊びに行っていた。今でこそ雨天練習場は当たり前だが、当時は画期的。野球をやるなら『キリタカ』だった」と当時を思い起こす。

 「ふるさとの風 第二集 稲川東一郎伝-白球にささげた青春」(野間清治顕彰会発行)によると、道場は稲川の私財をなげうって作られた。稲川の死後、桐生高に入学した河原井は新たに作られた2代目の道場を使用した。「作りは一緒。家の外にマウンドがあった。ふすまを開けると畳の向こうの板の間にベースが置かれていて、そこに捕手が座っていた」。板の間にはネットも張られ、毎日テニスボールやピンポン球を打った。「キュッと曲がる球を打っていたからか、変化球に強くなった」と原点を振り返った。

 稲川にとって最後の夏の甲子園となった66年、エースとして8強に導いた前野和博(69)は、稲川夫妻と4人の息子、定時制の部員らとともに道場で寝食を共にした。「夜遅くまで板の間でティー打撃をした。今でいうウエートトレーニングもやっていて、自転車屋からもらった不要なチェーンを、切ったバットに巻き付けたものを振っていた。ベンチプレスもあった」と語る。豪快な野球を想像するが戦略は緻密で、「データ」によるところが大きかった。甲子園出場に際し、ベンチ入りしない部員がスコアラーとして先乗りした。各打者の打球方向が放射線状に書かれた紙を眺め、夜な夜な配球を研究した。

 1回戦は優勝候補の広島商と対戦した。2点リードの終盤、2死一、二塁で1番の三村敏之(故人・元広島)を敬遠した。満塁になれば一打同点、押し出しもある。セオリーに反した策。だが、セオリーを超えるデータと確信があった。事実、次の打者を抑えて逃げ切った。しかも、この代は9人中、半数がスイッチヒッターだった。前年に対戦した右アンダースローの上尾(埼玉)会田照夫(元ヤクルト)がきっかけだったという。「会田にきりきり舞いになったことがあった。それで、左の方が打ちやすいだろうと、新チームから半分がスイッチヒッターになった。半端な練習量じゃないから、半年ぐらいでみんなそれなりになっていた」と笑った。

 今から50年以上も前に、数々の革新的な取り組みを行った稲川だが、甲子園優勝にはあと1歩届かなかった。前野は「準優勝が2回。それが残念でならないだろう」と心残りを代弁した。桐生高校の練習には毎日20~30人の野球ファンが詰めかけた。野球の盛んな「球都・桐生」を作り上げた「父」は61歳で生涯を閉じた。67年春の甲子園に出場後、4月16日の試合中に倒れた。

 前野 当時、悩んでいるとオヤジは「たかが野球だろう。深刻になるなよ」って言ってくれた。休みは元日しかなかったが、厳しかったという思い出はない。練習に奇策はなくて、基本の繰り返しだった。

 前野は後に東芝監督として都市対抗を制した。河原井は青学大1年で首位打者となり、同大の監督として井口資仁(ロッテ監督)らを育てた。稲川の薫陶を受けた野球人が次世代を育て、今なお羽ばたいている。(敬称略)

【和田美保】

稲川東一郎監督(桐生市教育委員会提供)
稲川東一郎監督(桐生市教育委員会提供)