斜陽の町に「光」が差し込んだ。1965年(昭40)8月25日、福岡県大牟田市では、第47回全国高校野球選手権大会に初出場初優勝を果たした三池工の凱旋(がいせん)パレードが行われた。当時の人口約20万人を上回る30万人もの歓声であふれたのは、三池工の奇跡が、悲惨な出来事からの復興を信じた希望の灯(ともしび)だったからだった。

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 63年11月9日午後3時10分頃、大牟田市の三池炭鉱(三川鉱)坑口から約500メートルの坑道で大爆発が起きた。死者458人、一酸化中毒患者839人。戦後最大の炭鉱事故だった。

 10日付朝日新聞は、救助隊が真っ黒にすすけた遺体を運び出す様子を詳報している。目を見開いたもの、顔をゆがめて虚空を見つめる人…。ほとんどが爆発で発生したガスを防ぐのにマスクをしていたという。

 100回大会を迎える夏の甲子園の歴史で深紅の優勝旗を手中に収めた工業高校は、三池工が唯一。監督は原貢(故人)だった。前巨人監督・原辰徳の実父で、鳥栖工(佐賀)卒の九州男。「ヤマの子」といわれた球児は、情熱のスパルタによって鍛えられた。

 65年夏の甲子園は、1回戦で優勝候補だった高松商(香川)に延長13回の末、2-1のサヨナラ勝ち。東海大一(静岡)、報徳学園(兵庫)、秋田を退け、決勝戦の銚子商(千葉)も2-0で振り切った。

 全試合を1人で投げきったのは、2年生左腕の上田卓三だ。計50イニングの防御率は0・90。南海、阪神でプレー、後にダイエー球団代表の要職に就いた。

 上田 原さんはユニホームを着ると目が血走った。練習がきつく、顔も見たくなかった。田隈(たくま)中に通っていたとき、家にまで勧誘にきてくれた。とにかく打つことにこだわった。いつも単車で熊本のメーカー「セントラル」でバットを買ってくる。自分の給料をはたいても、いいバットを使わせたかったんだ。全員が並んでのケツバットは恐怖でね。みんなが尻にアザができた。原さんの家で年に1回、全員がクリスマスパーティーをして、カレーライスをごちそうになった。厳しいけど愛情の人だったよ。

 決勝の銚子商戦で、大会屈指の速球派、木樽正明(元ロッテ)に投げ勝った。上田の体重は2キロ減り、57キロになった。炭鉱の爆発では叔父が記憶喪失になっていたから感慨深かった。

 上田 あれだけ厳しかった原さんが、甲子園に着いたら「おいっ、卓三、お前の好きなようにやれ」というんだ。あれだけがんじがらめだったのに…。後で考えたらそれも原さんの選手掌握術だったんだろう。でも優勝できるなんて、だれも思っていない。

 優勝インタビューで、原は尻ポケットから取り出したタオルで何度も涙をぬぐった。

 スタンドに流れたのは福岡県にまつわる民謡「炭坑節(たんこうぶし)」だ。


 ♪月が出た、出た、月が出た(よいよい)

 三池炭鉱の上に出た…


 優勝パレードには、一酸化中毒におかされた約300人の患者が、看護師や訓練指導員に付き添われて沿道で小旗を振った。リハビリを兼ねて横断幕も作った。失意のどん底からはい上がろうとした心の叫び。おらが町の誇りの凱歌(がいか)だった。(敬称略)【寺尾博和】

上田卓三氏
上田卓三氏