益田東は部員138人の大所帯だ。ほとんどが県外出身者で、口さがない人々は「外人部隊」と呼ぶ。大庭敏文監督(37)は「いろいろ言われますよ」と苦笑いする。「行くところがないから来た」「大阪のモンばかり取って…」。そんな言葉が耳に入ってくる。「僕は部員が多いことを誇りに思っています。うちに預けたいという親御さんが増えて、ありがたいこと」。実は選手の勧誘活動を積極的に行っていないという。17年も甲子園から遠ざかっていた野球部に、なぜ球児が集まるのか。

 大庭監督は大阪府八尾市出身。大阪から益田東に進んだ「第1号」だった。勧誘されたわけではない。父方の実家が益田市内にあった。中学3年夏に同校が甲子園に出場し、テレビで見た。幼少期には年に2度の里帰り。海、山、川の思い出がよみがえる。当時はやんちゃな15歳。「友達がおらんところがええ。大阪なら、悪いことをしてしまう」。地元での進学も考えたが、島根行きを決断する。

 当時の益田東は広島や山口など隣県出身者はいたが、関西人はいない。厳しい上下関係の中、「大阪弁で話をするなよ」と先輩にくぎをさされた。それでもイントネーションがつい出てしまう。「ちょっと来い」と呼び出される。大阪のノリで面白く話すと、「調子に乗っている」と言われた。「島根のモンに負けるか」。歯を食いしばった。そして島根の3年間が自らを変えた。「初めて勉強したんですよ」。恩師の故三上隆志前監督の教えがあった。「野球しに来たんなら、帰れ。勉強しろ」。甲子園には縁がなかったが、「両親のありがたみが分かった」という3年間だった。

 大体大を卒業後、恩師の誘いで母校に戻った。22歳で監督に就任。情熱に任せて指導した。「(甲子園の)最年少監督を目指すとかいろいろ思った。でも、子供は簡単には言うことを聞きません。ダメなことを生徒のせいにしていた」。結果が出ず、考えを改めた。「自分の姿を見て、子供は成長する。人として、どうあるべきかを伝えよう」。信念が生まれた。OBの口コミで、関西からの部員が増えた。100人を超す大所帯は最近5年の話だ。

 入学時に部員にこう話しかける。「甲子園に行きたいなら、他にいい監督はいっぱいいる。甲子園に連れていってくれ。その代わり、男としてどうあるべきかは俺が伝える。やるべきことを一緒にやろう」。野球留学は今でも賛否がある。仲介する大人の金もうけに使われるのは非難されるべきだ。しかし15歳の少年が勇気をもって、親元を離れる。その決断は尊い。大庭監督は自慢した。「水がうまい。空気がうまい。日本一きれいな清流もある。僕は益田、島根のことを愛している。過疎が進んでいる地域を活性化するのが夢なんです」。就任15年目で初の甲子園。1点届かず、初勝利はならなかった。「選手にはありがとうという気持ちしかない」。大阪で生まれた指揮官は、感謝を胸に益田に帰る。【田口真一郎】