優勝した帝京商(現帝京大高)の出場辞退を受け、東京代表には早実が選ばれた。第25回全国中等学校優勝野球大会(1939年=昭14)が開幕する直前の、思わぬ交代劇だった。早実は準決勝で帝京商に1-9と大敗した3位校。決勝に進出し、逆転負けした日大三中ではなかった。

帝京商が出場を辞退した直後のことだ。日大三中の選手たちを前に、監督の藤田省三がこう言い放った。「借り物の優勝旗を持って甲子園に行けるか。行きたきゃ、てめえらの力で行けってね」。1年生だった関根潤三(91)がセリフを覚えていた。藤田はのちに法大監督、プロ野球近鉄の初代監督を務める。関根があとを追う名将だった。

当初は日大三中が推薦された。藤田の言葉ではないが、それを学校側が辞退したという。東京都高野連が88年に発行した「白球譜 東京都高校野球のあゆみ」は、試合結果を伝える中で〈注〉として帝京商の辞退を記し、こう付け加えた。

「予選第2位の日大三中が代表に選出されたが、日大三中も選手資格問題を起こして辞退。結局、準決勝で優勝の帝京商に敗れた早稲田実が第3位校として推されて東京代表となり、8月6日、東京府体協野球部から正式に発表された」

帝京商は1年生の杉下茂(92)が高等小学校の大会に出たことで、辞退を余儀なくされた。日大三中の資格問題とはなんだったのだろう。途中加入した転校生の資格が問われた、の話があった。帝京商と同じ選手故障を理由に早々と辞退を申し出たため、詳しい経緯は残されていない。ともあれ、2校が次々と辞退する異例の大会になった。

先に辞退した帝京商では杉下が登校を拒否する生徒になっていた。「学校に行くのも、野球もイヤになってね。朝、家は出るんですが、学校に行かなかったんですよ」。帝京商は当時、幡ケ谷にあった。杉下は神田の自宅から徒歩で御茶ノ水に出ると、今のJRで新宿まで行き、京王線に乗り継いで通った。「繁華街で映画なんかみていると、補導されかねないからね。山手線に乗って回っているのが一番だったなあ」。

そんな時間を過ごしたあと、何食わぬ顔で自宅に戻った。しかし、欠席が続いてはバレる。母親が学校に呼び出された。「先生の目の届くところに置いてもらう。最後まで練習するということです」。こんな結論が出て、復帰した。夜、真っ暗闇の中、石灰をまぶしたボールを追う練習も経験した。逃げ出していれば、のちの「フォークの神様」はいなかった。

甲子園に出場した早実は準々決勝に進み、長野商に2-3で惜敗した。優勝校は、海草中(現向陽)だった。左腕の嶋清一が全5試合をすべて完封。準決勝と決勝でノーヒットノーランを達成した。

開会式では、山形中の主将三上七郎が「武士道に則(のっと)り、正々堂々」と宣誓し、参加選手全員が唱和した。スタンドは「愛国行進曲」を斉唱したという。試合開始は「進軍ラッパ」が告げた。帝京商が届かなかった甲子園には、戦時色が色濃く漂っていた。(敬称略=おわり)

【米谷輝昭】

(2018年4月8日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)