春夏合わせて11回の甲子園出場。千葉県の習志野は、習志野市立という公立高校ながら、夏全国制覇を2度果たす高校球界の名門校である。

掛布が地元の小中学校を卒業後、なぜ習志野へ進学したのか…。それは、当時から地元では有名だった「親子鷹」が遠因になっている。

掛布の父泰治(たいじ)は大正6年生まれ。06年に他界したが、戦時中は千葉商で軍事訓練を指導する教練の教師を務め、戦後復活した野球部の部長兼監督に就任している。そんな泰治が料理店を営む傍ら、掛布が在学していた新宿中(千葉市)の野球部の監督をすることになった。

父親が監督で息子が主力選手。後に東海大相模の原貢、辰徳親子の親子鷹が有名になったが、掛布もまた、監督であり父親である泰治に鍛えられ、育てられた野球少年だった。

掛布 オヤジは千葉商に進学して欲しかったようです。でも、いつもオヤジと戦っているような自分が、親の七光のように思われて千葉商に進学するのがイヤだったんでしょうね。父親から巣立ちたい、っていう気持ちがあったんだと思います。

父親との戦い。実は掛布は新宿中時代、泰治から強烈な「愛のムチ」を受けている。当時、内野のノックは三塁、遊撃、二塁という順に行われていたが、だれかがポロリとやると、また三塁に戻ってノックが始まる。ある日、どういうわけか、ポロリとやる選手が多く、三塁の掛布はノックを受け続けることになる。そのつらい気持ちは、表情に見て取れた。

泰治は掛布が守っている三塁まで走り寄ると数分間、殴り、蹴り続けた。後日、後に泰治から「自分の息子に甘い監督とは思われたくないから」と真相を聞いたが、最後は殴られても蹴られても、三塁ベースを抱きかかえるようにして耐えていた。

「どうだ。もう1回ノック受けるか」

立ったままの泰治の声が聞こえてきた。もうこうなったら、監督であっても父親であっても関係ない。中学生・掛布にも意地があった。

「よし、いこう。みんな、頑張っていこう」

掛布の元気な声で、再び内野ノックが始まった。これも泰治の生前、「あの時、音を上げていたら、お前には野球をやめさせるつもりだった」と聞いた。

掛布は男3人、女3人の6人きょうだいの5番目、3男として生まれた。泰治は「男の子を野球選手として甲子園に」という夢を持ち続けており、特に掛布には厳しかった。地元の野球ファンには有名だった掛布親子の「親子鷹」。父親から巣立つように習志野へと進んだ掛布は、泰治の夢を実現する。1972年(昭47)、第54回の夏の甲子園、2年生の掛布は雨中の開会式で甲子園の土を踏んだ。(敬称略=つづく)

【井坂善行】

(2017年9月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)