谷繁の同級生だった藪野良徳には、忘れられないシーンがある。入学して初めて参加した練習だったと記憶している。

藪野 1年生の実力を試す意味で、1人5球ずつフリー打撃をしたんです。谷繁は5本のうち3発をレフト後方にあった女子寮の屋根に当てた。翌日から1軍ですよ。ずばぬけてましたね。最初はやっぱりバッティングの印象が強いな。

谷繁は当初、投手で起用された。だが、結果は出なかった。5月の連休中、練習試合で打ち込まれると、監督の木村賢一に呼ばれ「ピッチャーは失格だ。これからはキャッチャーをやれ」と言われた。

谷繁 投手は厳しいと思っていた。投げれば打たれていたから。ただ、なぜキャッチャーだったのか。その真相は分からない。監督に聞いたこともないから。

木村は今、母校の大阪・明星高校でOBとして時に練習を手伝っている。天王寺区の同校は、真田幸村(信繁)が築いた大坂城の出城「真田丸」があった場所といわれている。

木村 投手としての谷繁は、直球こそ速かったけど変化球があまりよくなかった。そこが気になった。彼の3学年上だったかな。やはり直球は速いが、変化球が曲がらない選手がいた。その子も打撃がよくてね。野手にした方がよかったと思った。その選手とダブったんです。身長も174センチぐらいで入ってきて大きい方ではない(プロでも176センチ)。投手だと一流になれない。ならば…と思いました。

谷繁が受験に失敗した広島工の監督、小川成海が、木村に谷繁を勧める際に捕手の可能性を示唆していた。指導者たちが、彼を捕手へいざなう。しかし、谷繁に捕手経験はなかった。

谷繁 小学4年の時に1度、先輩がけがをして捕手をやった。いいブロックをしてほめられた覚えがあるよ。でも、捕手の経験はそれだけだった。

だが、木村にコンバートを言い渡されても、戸惑いはなかった。

谷繁 嫌じゃなかったね。もともと投手をしていても「この打者をどう抑えてやろうか」と、考えて投げていた。同じ真っすぐでも、ちょっと抜いてみたりね。ずる賢いところがあった。それに肩も自信があったから、セカンドで盗塁を刺すのはおもしろかった。

転向直後のプレーについて、木村が振り返る。

木村 キャッチングがうまかった。何がいいって、脇が開かない。一定のところで受けるから、いい音が鳴る。なかなか鳴りませんよ。それに、アウトコースのキャッチングが格好良かった。あの姿は目に焼きついています。

スローイングも賛辞しか出てこない。

木村 しっかり体を回転させて投げる。座って投げても回転していて、腕だけ、肩だけで投げていない。私は立命大出身なので、よく後輩の古田(敦也)と比べるのですが、古田は腕のしなりで投げるから、やや横振り。でも、谷繁は体の回転を使った縦振り。投手に返す時も、意識していたと思う。だからプロで故障なく27年間もできた。捕球も送球も、これはもう最初からです。私が教えたのではありません。中学の指導者か、お父さんの指導がよかったのでしょう。

捕手転向を決めた恩師にも語れない部分がある。捕手・谷繁の原点を父一夫に聞いた。(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年9月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)