谷繁の自信は、最初の三振で吹き飛んだ。江の川2年の夏。「4番捕手」として意気揚々と甲子園に乗り込んだ。

初戦で神奈川代表の横浜商(Y校)と対戦した。同じ2年生エースの古沢直樹が投げた球に、谷繁はなすすべもなかった。

谷繁 1打席目が終わったところで「ムリだ」と思った。古沢の球を打てる気がしなかった。速かったし、あの場所にのまれたところもあった。こんな思いは初めてだった。

第2打席は三塁併殺。第3打席は三振に倒れた。そして9回2死二、三塁の好機で迎えた第4打席は三飛で、最後の打者になった。守備では1、3回にけん制で走者を、5回には二盗を刺した。見せ場はつくったが、胸には屈辱が残った。

谷繁 全国の壁の厚さを思い知らされた。同い年の球をまるで打てず、力のなさを痛感した。全国は簡単ではなかった。

ただ、初めての甲子園で好投手と対戦した。この経験は貴重だった。

谷繁 じゃあ、全国でも打てるようになるにはどうしたらいいか。次は甲子園で勝ちたいという思いが強くなった。2年生の甲子園は、そういうきっかけになった。

新チームでは主将に就任した。甲子園の勝利に向けて、チームメートにも厳しい声をかけた。同級生で、副主将だった藪野良徳が振り返る。

藪野 「何でちゃんとやらんのや!」とか厳しくいわれて、オレらも反抗したこともあった。でも、彼は自分から率先してやるから、結局は付いていくしかなくなる。グラウンドにも一番先に出ていくし、ウエートトレーニングなども一生懸命やっていた。リーダーシップがあった。いろんな地方からゴンタ(強情っぱり)な子が集まっているから、ケンカもある。そういう時も谷繁が「ちゃんとしようや」と言って、まとめていました。

谷繁 オレ1人で頑張っても甲子園で勝てないでしょう。だからみんなに同じように練習させた。きつい練習で手を抜くヤツがいたら「お前ちゃんとやれよ」とか言ってね。

谷繁主将のもと、秋も島根大会で優勝した。中国大会では準々決勝で鳥取西にサヨナラ勝ちした。準決勝では西条農に2-3と惜敗したが、堂々のベスト4だった。

翌88年のセンバツは第60回の記念大会で、中国地区から4校選出になった。中国大会に優勝した広島工、準優勝の西条農は当確。同じベスト4の倉吉東は、広島工に1-11で大敗していた。江の川の2季連続となる甲子園は確実とみられた…少なくとも谷繁ら選手は、そう思っていた。監督の木村賢一も同じだった。

木村 それはもう…4校になった段階で確実と思いましたよ。

甲子園の勝利に向け、冬場は走り込んだ。木村が「6キロランニング」と呼んだ練習がある。1500メートル走を1本、400メートル走を3本、200メートル走を5本、100メートル走を10本、50メートル走を20本、20メートル走を50本。合計で6・7キロになる。

木村 すべて全力ダッシュが基本です。ウエートトレーニングと交互に、週に3度はやっていました。

そして88年2月1日、センバツ出場校が発表される日を迎えた。谷繁の高校生活で、もっともつらい1日になった。(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年9月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)