全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第21弾は中西太氏(84)です。高松一(香川)で活躍し、甲子園には春夏合わせて3度出場しました。豪快な打撃で、ついた異名は「怪童」でした。のちに西鉄ライオンズ(現西武)で大暴れしたスラッガーの原点を全10回でお送りします。


山陽新幹線を岡山駅で乗り継いで、快速マリンライナー号が高松駅に滑り込むと、1970年代にヒットした「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)のメロディーが迎えてくれる。

市街地を進むと、芝生の広がった高松中央公園が見えてくる。昔の面影を残した「高松市立中央球場」の跡地には、今もホームベースが埋め込まれていた。

その奥には高松が生んだ名選手で、名監督の三原脩、水原茂の2人が並んだ銅像が立っている。

かつて、この地に「怪童」の異名をとった男がいる。それが高松一の中西太だった。「野球王国」と言われた高松が生んだスラッガーの打球は、次々に両翼92メートル先のフェンスを越えた。

45年には空襲に遭って、その荒廃から立ち直った。母小浪(こなみ)の女手一つで育てられた野球少年は、戦後間もない時代に、ひたすら白球を追い続ける。

中西 戦後の混乱期にあって高松の中央球場は思い出深いところで、まさに私の野球の原点だ。泥にまみれ、歯を食いしばって必死に練習しただけに特別の感慨がある。

チームメートだった複数の関係者によると、中西が打撃練習を始めると、内野手は守備位置から消えたという。打球が速すぎて危険にさらされるため、外野に移動していたのだ。

49年4月のセンバツで初めて甲子園に足を踏み入れた。入場行進曲は兵士の間で歌われた「異国の丘」だった。高松一の夕食後には、度胸をつける意味で1人ずつ歌を披露させられたという。


高校1年生だった49年春夏、3年生の51年夏と合わせて計3度の甲子園出場。最後の夏になった51年の33回大会で、岡山東(現岡山東商)と福島商を相手に、2試合連続ランニングホームランを記録する。

高卒後、西鉄ライオンズ(現西武)入りし、プロ野球界でも「怪童」の名を知らしめる。53年8月29日の本拠平和台球場での大映戦で、名投手の林義一から超特大の本塁打を放った。

打球はセンター後方のバックスクリーンの右上空を、はるか場外へと飛び去った。推定飛距離160メートル超。後に打球の通過点を示すボール型の記念標識が設置された。それは今でも日本人選手の最長記録と言われている。

御年84歳。プロ野球界では、選手、コーチとして9球団を渡り歩いた。数々の名選手を育て上げた名伯楽。怪童と名付けられた男のルーツは高校時代にあった。

都内の自宅で中西は「もう半世紀以上も前のことで、甲子園に出場した際の記憶は薄れている」と苦笑したが、「1つだけ鮮明に覚えている」と続けた。

中西 最後に負けて悔し涙を流したかどうかは覚えていない。でも球場を去るときに、スタンドから「また来いよ~」と声を掛けられた。それが今でもずっと耳に残っている。うるっときた。私にとって甲子園は心のふるさとだ。(つづく=敬称略)【寺尾博和】


◆中西太(なかにし・ふとし)1933年(昭8)4月11日、香川県生まれ。高松一から52年に西鉄入団。同年新人王。本塁打王5度、首位打者2度、打点王3度。62年から兼任監督となり、63年に西鉄最後の優勝。69年限りで現役引退、監督退任。現役通算1388試合、1262安打、244本塁打、785打点、打率3割7厘。74~75年日本ハム監督。79年に阪神打撃コーチ、80年途中から81年に監督。その後、ヤクルト、近鉄、オリックスなどでコーチを務めた。若松勉、岩村明憲ら後の大選手を数多く育て上げ、球界屈指の名打撃コーチと呼ばれる。右投げ右打ち。

(2017年10月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)