夕暮れの高松港に、七色のテープが舞った。高松一は1949年(昭24)に初めてセンバツ出場を決めた。中西らを乗せた別府航路の旅客船を、大勢の人々が見送った。腹に響いたドラの音、名残を惜しむかのような家族、友人の面々…。

デッキにいた中西の視線の先に、桟橋の片隅から人混みをかきわける母小浪が映った。つま先立ちで手を振るおふくろの姿に感極まった。貧しさのなかでも温かかった。戦中を生き抜いた、親子の絆が表れた歓送の光景だ。

中西 今でも船旅で見送られるのは好きではないんだ。なんだかもの悲しくてね。あこがれの甲子園でプレーできる興奮と感傷的な思いが交錯して泣きそうだった。当時は食糧難だったから、それぞれが持てるだけ、5、6升の米をかついで船に乗り込んだ。楽しくもあり、つらくもあった。

神戸港についたのは午前5時半。眠い目をこすりながら米袋をかついだ選手たちは元町まで歩いて、電車を甲子園口まで乗り継いで、近くの「都旅館」にたどり着いた。

前年の48年、学制改革「六・三・三制度」発足。今なら新1年生がセンバツに出場することはあり得ないが、中西は高校の入学式にも出ていない1年生として、甲子園の大舞台に立ったのだ。

この年のセンバツは16校が出場し、中西は初戦の関西(岡山)戦に「3番三塁」でデビューする。2回に中前2点タイムリーを放った。チームも9-3で快勝。これが高松一が甲子園で挙げた初勝利だった。

中西 開会式の入場行進では、すり鉢の中に入った感じで、どこを歩いたのかは覚えていない。みんな緊張していたし、体が宙に浮いている感じがした。

準々決勝は、47年夏の大会で優勝を果たした小倉(福岡)戦で、中西は4打数無安打に終わった。チームも小倉のエース福嶋一雄(現日本野球連盟九州地区連盟副会長)に、わずか3安打に抑え込まれる0-4の完封負けだった。

48年夏に史上2人目の5試合連続完封で2連覇を達成した伝説の名投手。福嶋は2つ年下の中西の存在を冗舌に語った。

福嶋 確か試合前日だったと思いますが、四国新聞社が企画した対談がスタンドであったときに初めてお会いした。体も大きくなく、高校生らしい学生という印象でした。打席に立ったときは、それなりに風格があった。リストの柔らかいスイングで、レフト前に1本打たれた気がしたんですが(無安打に抑えていることに)それだけ打たれた印象があるんでしょうね。対戦したなかでは素晴らしい打者でした。その後のプロでの活躍を見るたびに、なるほどなと思ってました。

この試合は判定が微妙に影響した。高松一の3回の攻撃で、1番伊藤哲の三ゴロを、小倉の福田慶久が一塁に悪送球し、三塁走者が生還する。だが、福田が泣きながら守備妨害のアピールにでた。結局は審判団で解決できず、大会審判長の裁定によって判定が覆ったのだ。「幻の先取点」に勢いがそがれたとすれば、不運だった。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2017年10月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)