西田真二は野球好きの一家に育った。祖父も、そしてスポーツ少年団の監督を務めた父嘉平(81)も野球好き。小さいころから運動神経の良かった西田は、自宅の壁に丸い円を描いて、そこにボールを投げ込む毎日だった。

西田 初めは強制的でしたけど、やっていくうちにうまくなっていくのが分かった。それで、面白くなってきた。ランニングも、足は速い方じゃないけど、自分で工夫してインターバル走法を取り入れると、日に日に速くなっていくのが自分でも分かるほどでした。今、振り返ると、伸び盛りだったんでしょうね。

和歌山市の河西中学に進んだ西田は、野球の実力はだれもが認める存在で、「お山の大将」になった。ピッチャーで4番。河西中学野球部は「西田のチーム」と呼ばれるほどだった。

1976年(昭51)4月、激しい争奪戦の末、西田はPL学園に入学し、硬式野球部に入部する。後にバッテリーを組む木戸克彦(阪神)をはじめ、プロに進んだ金石昭人(広島)、谷松浩之(ヤクルト)ら、全国から集まったメンバーはそうそうたる顔ぶれだった。

だが西田が1年生の夏。PLは2度目の甲子園決勝まで勝ち進んだが、延長11回、初出場の西東京・桜美林に3-4でサヨナラ負けを喫した。

西田 アルプススタンドで必死に応援しました。桜美林の応援団もすごかったですから、相手に負けない応援をしようと頑張りましたよ。でも、負けた先輩の3年生の方の悔しそうな姿を見るのはつらかったですね。優勝と準優勝…最後に勝つか負けるかですが、その1試合の大きさっていうのを教えられたような気がします。「準」があるかないか、えらい違いです。

PLにとって、またもや全国制覇を逃した夏が終わり、新チームがスタートした。そして、西田1年の秋。入学時からその非凡な才能に目をつけていた名将との本格的な師弟関係が始まった。

鶴岡泰(現山本泰=72)。そう、あの南海ホークスを率いた元監督、鶴岡一人の長男である。

山本 カーブマシンを打たせたら、ボコッという当たりなのに、サク越えを連発する。インパクトの強さはすごかった。私のPL時代、バッティングで印象に残る選手は巨人に入った吉村と、西田の2人です。

山本はある日、野球部専用の「研志寮」の夕食をチェックした。「1年生の猛練習の後、ご飯6、7杯食べていた」西田を見て、「大物」を予感した。(敬称略=つづく)【井坂善行】

(2017年11月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)