移りゆく時代。野球界だけにとどまらず、スポーツ界全体に〝愛のむち〟があったかつての時代から、今は当然ながらすべての体罰が禁じられている。

智弁和歌山・高嶋仁監督(左)と語り合う帝京・前田三夫監督
智弁和歌山・高嶋仁監督(左)と語り合う帝京・前田三夫監督

 前田 高校野球も時代とともに変化してますし。タイブレークだとかね。僕らの時代は、高嶋さんなんかの時代もそうだと思いますけど、スパルタ教育で、そのうち自主性が出てきて。今はゆとりだとか、変化が出てきている。その中で、同時に指導者も変わらんといかんし。それだけね、前よりも手がかかりますよ。指導者も、体力もいるし忍耐もいる。

 高嶋 今の子は聞かないですから。態度がでかい。

 前田 だからね、僕ははっきり言うんですよ。足元を見るなって。一番ずるいやり方だぞって。指導者には指導者の苦しさがある。お前らにはお前らの苦しさがあるから、お互い分かり合わないと、チームはできんぞって。足元を絶対に見るな。それはなんて言うかな、ずるい考えだ。スポーツマンはずるい考えは絶対ダメ。だから言って聞かせますよ今は。根気がいるね。時間かけてやらないと。

 長い指導者生活。プロに行った数多くの選手たちの高校時代を見てきた。

 高嶋 マー君はすごかった。星稜の小松(辰雄=元中日)も速かったですね。

 前田 やっぱり松井(秀喜)はよく打った。僕は神宮大会で5打席中、4つ敬遠させたからね(笑い)。

 高嶋 神宮で良かったですね(笑い)。

 前田 最後ぐらい勝負せいって言ったらね、神宮第2で、二塁打打たれましたね。で、松井が次の年に、僕は帝京でも4打席敬遠されたって言ってたんですよ。ばか、いらんこと言わなくていいって(笑い)。

 高嶋 甲子園でやってくれたら、(明徳義塾)馬淵さんもあんなに騒がれなくていいのに。

 尽きることのない野球談議。互いに指導者になってから、40年以上の月日が流れている。

 前田 最初は40人いたのが4人になって。1学年で150人ぐらい入った年もあったから。それを1人で束ねていたんだから。若いっていうのはすごいね。

 高嶋 和歌山に移った時、部員50人が、僕行ったら3人になりましたね。僕の頭の中は、箕島を倒さないと、甲子園行けないですから、そのことだけ。でも彼らは同好会です。アップいくぞって、ポールからポール100本って言ったら、次の日また誰も来ません。

 前田 高嶋さんは長崎海星か。外様だ。同じだ。やっぱり母校じゃないからね、責任あるね。僕なんか4人になった時は大変でしたよ。それこそ4人対サッカー部が200人ですから。1人休んで、僕がバッティングピッチャーやって、1人バッティング、キャッチャーやったら、外野守るのが1人しかいない。それでも、無我夢中でしたね。

 互いに順風満帆ではないスタートから、実績を積み重ねて今がある。2人の出会いは約20年前だった。

 前田 高嶋さんは智弁学園の時は、あんまり勝ってない印象がある。それが智弁和歌山で、急に勝ち出した。それで、遠征に行ったんです。高嶋さんには執念がありましたね。智弁学園では、ベンチで仁王立ちはしてませんでしたよね。

 高嶋 やってません。

 前田 智弁和歌山になってあのスタイルでしょ。何かあったんですよね。

 高嶋 5回連続で負けたんですよ。甲子園の1回戦で。その時は座ってたんです。監督は目立たん方がええと思って。で、6回目出たときに、もう目立ってもええって。それで勝ったんですよ。それから座れんようになったんです。

 前田 やっぱり勝てなかったのが1つの土台でしょうね。そこに原点があるんじゃないかな。負けるっていうのは大切ですね。

 高嶋 負けがあるから、次の勝ちがあるんですよ。

 「次の勝ち」を積み重ねて、高嶋監督は甲子園最多63勝に到達。それでも自分は「亀」と繰り返す。

 高嶋 PL学園の中村(順司)さん(通算58勝)は、放っておいたら150勝ぐらい行ってましたよ。こっちは、ゆっくり、ゆっくり行っているだけですから。よう辞めてくれたな、って思いますよ(笑い)。

 前田 高嶋さんは、もういいんじゃないですか。もう60勝しているんだから。

 高嶋 いやいや。今辞めたら、前田監督が追い掛けてくる。虎視眈々(たんたん)と狙ってますから。

 前田 いやいやいや、そこまで行きませんよ。それこそ亀ですよ。(おわり)