甲子園の歴史は、「アイドル」と呼ばれた、さわやか球児たちの存在で輝きを増した。全国高校野球選手権大会100周年企画「未来へ」の第5回は、「アイドル編」。甘いルックスで、大フィーバーを巻き起こした。歴代のアイドルたちをひもときます。【後編】

左から東海大相模・原辰徳、東邦・坂本佳一、早実・荒木大輔
左から東海大相模・原辰徳、東邦・坂本佳一、早実・荒木大輔

 ◆早実(西東京)OB斎藤佑樹投手(26=日本ハム) 「ハンカチ王子」と呼ばれた06年夏の決勝。駒大苫小牧のエース田中(ヤンキース)と投げ合い、再試合の末、チームを初優勝へと導いた。球児たちへ「今から僕が高校球児になることはできない。もう、その時間は戻ってこない。あと3カ月くらい、いろいろなことを考えてやってほしい」と熱く訴えた。「どんなミスも恐れずに、一緒に戦ってきた仲間と思い切ってやってほしい」と、多くのものを背負ってきた斎藤だからこそ感じた、夏の1ページがある。

 ◆早実(東東京)OBで元ヤクルトの荒木大輔さん(50=野球評論家) 高校1年夏から5季連続甲子園に出場し、「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした。1年夏は5試合4完封で準優勝。私生活から注目を浴びたが「(通学)電車に乗る時も、いつも5、6人の同級生が一緒に乗ってくれました」と感謝する。早実卒業時に一括して受け取ったファンレターは段ボール約30箱。「大輔」は名前ランキング1位になり、ソフトバンク松坂も荒木氏から取った。「ちゃんとしなくちゃ、という責任感を感じます。西武のコーチの時、一番きつく当たったのは松坂」と、生活面を含めて指導した。

 ◆東邦(愛知)OB坂本佳一さん(53) 「バンビ」の愛称で呼ばれたスラッとした体形は変わっていない。現在、名古屋市に本社を置く岡谷鋼機株式会社で本店長室付室長として、複数の部下を従え忙しい日々を送る。77年夏。1年生投手のけなげな姿が注目を集めた。「勝ち進むにつれて危険だと言われて(宿舎から)出られなくなった」。甲子園から帰っても、段ボールに詰め込まれた手紙やプレゼントが学校に届いた。今でも「あの坂本さんですか…」と声を掛けられる。「38年もたって覚えてくれてる方がいる。幸せです」とさわやかに笑った。

 ◆東海大相模OBで巨人の原辰徳監督(56) 夏は高校1年から3年連続出場し、2年春に準優勝するなどアイドル並みの人気を誇った。最初は「なぜ自分ばかりが?」という気持ちがあったが、時間の経過とともに「自然体でいることがチームにとっても自分にとっても一番いい」と思えるようになったという。1年夏の準々決勝で鹿児島実に1点差で敗れ、バスで引き揚げるとき、窓越しに球場外壁のツタが目に入ってきた。「ようし、オレは必ずここに帰ってくる」と決めた。「その風景が忘れられないから甲子園に戻ってくることが出来たし、今もこうして戦えている」と振り返った。

 ◆三沢(青森)OB太田幸司さん(63=野球解説者、日本女子プロ野球スーパーバイザー) 彫りの深い顔立ちで高校時代は「プリンス」と呼ばれた。りりしいまなざしは今も変わらない。69年夏決勝。松山商(愛媛)との延長引き分け再試合は夏を熱くした。近鉄入り後も人気は衰えず。先行する人気に実績でも追いつこうと努力を重ね、72年球宴(甲子園)第3戦では3回無死満塁で巨人王を新球スライダーで遊飛、同長嶋を同シュートで併殺に封じた。「“甲子園の太田幸司”と見る周囲の目に負けないよう、歯を食いしばってきました」と懐かしんでいた。(おわり)

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雑誌「輝け甲子園の星」の「心に残ったあの球児」投票歴代1位
雑誌「輝け甲子園の星」の「心に残ったあの球児」投票歴代1位

 甲子園のアイドルには一定の傾向が見られる。主な特徴は投手が多く、4強以上の実力があり、延長戦の死闘、優勝に届かない非運、1年生、線が細い-などだ。多くの球数を投げ、孤軍奮闘の形になると共感を呼ぶケースが少なくない。

 69年太田幸司(三沢)は夏の決勝で松山商に18回262球を投げ、翌日再試合でも122球完投で2日間合計384球。06年斎藤佑樹(早実)は駒大苫小牧との引き分け再試合など7試合69イニングで計948球も投げた。斎藤は優勝したが、大概は非運を伴う。77年坂本佳一(東邦)は大会登録176センチ、62キロの1年生で、当時15歳9カ月ながら全5試合完投。決勝の東洋大姫路戦で10回2死から4番安井にサヨナラ3ランを浴び、158球目(大会通算663球目)で力尽きた。夏の大会で1年生の1大会5試合以上完投は、坂本を最後に出ていない。【織田健途】