夏100年の歴史の中で「最高の試合」と呼ばれる一戦がある。79年8月16日、甲子園大会3回戦・星稜(石川)-箕島(和歌山)戦。延長18回に及んだ激闘の記憶は、今も高校野球ファンの胸を打つ。無念の転倒があった。起死回生の本塁打があった。「100周年の夏 未来へ」の第7回は「あの球児は今」。星稜の山下智茂監督、山下靖主将、加藤直樹一塁手(いずれも当時)が、球史に残る夏の日を振り返る。(敬称略)【後編】

「箕島対星稜」の思い出を語る左から山下靖さん、山下智茂名誉監督、加藤直樹さん(撮影・田崎高広)
「箕島対星稜」の思い出を語る左から山下靖さん、山下智茂名誉監督、加藤直樹さん(撮影・田崎高広)

 加藤は、その翌日「宿舎から帰るときが一番怖かった」と述懐する。時間をかけ苦い思いを埋めていけたのは、加藤を思う人が存在したからだ。その1人が箕島監督、尾藤公だった。

 あの夏から15年後。94年11月26日、和歌山で当時のメンバーが集まり「再試合」をした。7回裏、1-2の2死一、三塁の箕島の攻撃で、敵将だった尾藤が代打に。監督の山下が救援のマウンドに立った。尾藤は一塁の加藤のもとに打球を打ち上げた。山下は絶叫していた。「加藤! 捕れ~!」。誰もが自分を責めた加藤の心情を、時がたっても思い続けていた。

 山下監督 加藤が捕って、その後の宴会の乾杯で尾藤さんが「きょうは加藤のためにしようや」と言ってくれた。感動しました。あんなこと、なかなか言えないよね。ありがとねえ、尾藤さんって。みんな泣いてたな。

 加藤は加藤で、心にたまっていた思いに決着をつけた。わびたい友がいた。エース堅田外司昭だった。

 加藤 ずっと謝りたいと思ってて。堅田がスカウトの目に留まっていたかもしれないし。でも、言えなくて。社会人になって、取材に来られた人が「堅田さんにも行きます」と言われ、その話をしたらしいんです。堅田がびっくりして「ぼくも加藤に申し訳ない。ぼくが打たれなかったら加藤が苦しまずにすんだのに」と言ってくれた。同じこと思っていたんやと。それですっきりしたなと。

 次男峻平が星稜の選手で出場の13年夏、加藤は父として甲子園へ。堅田は今、審判で甲子園に立つ。両校は79年の後も和歌山、石川、甲子園で試合を行い、11年にともに尾藤を送った。

 山下 箕島のおやじさんが尾藤さん、星稜のおやじさんが山下先生。2人の意思を今度は私たちが引き継いでいかないといけない。尾藤さんが亡くなられたときに強く思いました。若いころは、いつまでも「延長18回の」という目で見られるのはしんどかった。作られた私の偶像が出てくるから。でも年を取って、あの試合があるから今の自分があると思うように考え方がシフトしていったんです。

 携わった人間に使命を教えた試合。それが星稜-箕島戦だった。【堀まどか】(おわり)

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夏の甲子園 延長18回以上の試合
夏の甲子園 延長18回以上の試合
夏の甲子園・延長以降のチーム1試合2本塁打以上
夏の甲子園・延長以降のチーム1試合2本塁打以上

 奇跡と呼ばれる79年の星稜-箕島戦では、延長12、16回にそれぞれ、同点本塁打が飛び出した。延長に突入してから2本塁打を放ったチームはほとんど見られない。裏の攻撃なら、1本出ればサヨナラになりやすい。夏の甲子園で延長以降のチーム2本塁打以上は、この時の箕島と47年小倉中の史上2例しかない。

 47年小倉中は準決勝の成田中戦で10回表、先頭の3番松尾がソロ本塁打で勝ち越し。四球の走者2人を置いて7番西上も本塁打を放った。箕島の場合は2本とも状況が2死無走者で、絶体絶命のピンチから起死回生となるドラマ性があった。甲子園の春夏を通じ、1試合で延長以降に肩書付き(先制、同点、勝ち越し、逆転)の殊勲アーチを2本打ったチームは箕島だけだ。【織田健途】