元広島の川島堅さん(48)は、一部メディアで「甲子園史上最も美しいフォーム」と称された。東亜学園2年の秋にブロック予選で敗退した後、自ら試行錯誤を重ねてつかんだものだった。


 川島さん(以下、敬称略) 2年と3年では投げ方がまったく違います。2年の時は力任せで投げていました。野茂さんほどではないけど、打者に背中を向けていました。


1987年夏の甲子園準決勝、常総学院戦で投球する東亜学院の川島堅投手
1987年夏の甲子園準決勝、常総学院戦で投球する東亜学院の川島堅投手

 夏の大会も近づいた5月にアクシデントがあった。浦和学院との練習試合に登板した際、右手中指の筋を伸ばして投げられなくなってしまった。


 川島 投げているときにブチッとなりました。もうボールが握れない。本来なら最後の投げ込みをする時期に、1カ月半ぐらい投げられなかった。投球再会は6月後半…もう大会の直前でした。ぶっつけ本番ですね。


 不安を持って最後の大会を迎えた。


 川島 そうですね。でも、もう3年生だったし、負けたら引退するだけ。それほど深くは考えていませんでした。この時はプロに行くという気持ちも、まったくありませんでしたから。進路ですか? 大学でもやれたらいいかなと思っていたぐらい。監督が東洋大出身だったので、東洋かな。でも東都の強豪で通用するかな。試合に出られなかったらつまらないな。そんなことを考えていました。


 前年の経験から体力温存を重視した。2年夏の西東京大会は、背番号11ながら主力投手として奮闘した。全6試合のうち5試合で完投と、ほぼ1人で投げきった。優勝はしたものの、最後はバテてしまった。


 川島 3球勝負で球数を減らした。三振を狙ったわけではなく、どんどん勝負にいっただけ。下位打線にはど真ん中に投げていましたからね。言い方は悪くなりますが、抜いて投げることもありました。前年は6試合。この年はノーシードで7試合だから、さらにきついと思っていた。準決勝の日大三にピークを持っていこうと。そこまでは少々打たれても、要所を抑えて勝てればいいと考えていました。


 久留米西との4回戦では3点を失った。日本学園との5回戦は、1発を浴びて先行を許した。終盤に逆転して2-1で勝利した。


 川島 抜きすぎたところもあったかな。久留米西に3点を取られたけど、結局、甲子園の準決勝まで3失点以上はこれだけでした。あとは全部2点以内に抑えました。


 日大三の準決勝は圧巻だった。


 川島 一番本気で投げました。ほとんどヒットを打たれていないんじゃないかな。


 わずか3安打で完封。11三振を奪い、三塁を踏ませぬ投球だった。決勝では東京菅生(現・東海大菅生)を6-1で破り、2年連続の甲子園出場を決めた。

 圧巻の投球は甲子園でも続いた。


 ◆1回戦 2-1伊野商(高知) 9回111球6安打7奪三振0四球1失点1自責

 ◆2回戦 3-2金沢(石川) 9回139球6安打14奪三振0四球2失点1自責

 8月16日に東東京代表の帝京・芝草宇宙(ひろし)投手が、東北戦でノーヒットノーランを演じた。東亜学園の3回戦は、その翌日に行われた。

 ◆3回戦 3-0延岡工(宮崎) 9回96球6安打7奪三振0四球1失点1自責


 川島 この頃が一番調子がよかったですね。準々決勝の相手は抽選で決めたのですが、キャプテンに「PL学園を引いてきて」と言ったぐらいです。「今なら、勝てずともいい勝負ができる」と。どうせならセンバツ王者のPLとやりたかったし、負けても胸を張って帰れるでしょう。でも、対戦できませんでした。


 PL学園は立浪和義主将を軸に、エース野村弘(弘樹)投手、片岡篤史選手らを擁し、この年のセンバツを制していた。結果的に春夏連覇を果たす。


 ◆準々決勝 3-0北嵯峨(京都) 9回108球3安打14奪三振1四球0失点0自責

 この試合、甲子園で初めて四球を出した。8回2死から8番打者に対し、カウント3-2から外れた。甲子園での無四球は34回2/3で止まった。122人目の打者、441球目の初四球だった。


 川島 無四球は意識しました。そこまでいくと騒がれますので。ただ、四球を出した選手は試合前に監督と「今大会のラッキーボーイかもしれない。要注意が必要」と話していたんです。だから厳しくいった結果でした。


 ◆準決勝 1-2×常総学院(茨城) 9回0/3 152球6安打5奪三振2四球2失点2自責

 同点で迎えた延長10回裏。常総学院の先頭、島田直也投手に右前打を浴びた。続く仁志敏久選手を遊ゴロに打ち取るも、遊撃手が一塁へ悪送球した。一塁走者の島田投手が一気にサヨナラのホームに返った。


 川島 もうヘロヘロでしたね。6回ぐらいから肩も上がらなくなっていた。いっぱいでした。


 西東京大会、甲子園を通じて川島さんの名前は高まった。進路を考える時期がきた。


 川島 全日本の遠征でチームメートと話しているとき「お前、ドラフト1位だな」と言われて、そうなのかなと。


 当時の新聞を振り返ると、川島さんは在京セ・リーグの希望を口にしている。ただ、同年の目玉には立大の長嶋一茂選手がいた。在京セのヤクルト、大洋(現DeNA)は長嶋選手に狙いを定めたと報じられていた。


 川島 在京セとは言っていたけど、一茂さんがいたので無理だと思っていました。広島、阪神、近鉄が熱心に誘ってくれていました。ただ、広島には行ったことがなかったのでイメージが沸かなかった。行ったことがある大阪だろうと思っていました。


1987年ドラフト会議、東亜学園・川島堅への交渉権を獲得する広島球団代表(右端)。左端は阪神村山実監督
1987年ドラフト会議、東亜学園・川島堅への交渉権を獲得する広島球団代表(右端)。左端は阪神村山実監督

 11月18日のドラフト会議では広島、阪神、近鉄の3球団から指名され、抽選の末に広島入団が決まった。


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 当時の広島は投手王国だった。大野豊投手、北別府学投手、川口和久投手、抑えには津田恒実投手もいた。


 川島 大野さん、北別府さん、川口さん、長富さん、清川さん、紀藤さん、金石さん、川端さん、白武さん、津田さん…すごい人ばかりだった。私のことなんか獲得する必要があったのかなと思った。もう入る余地なんてないですよ。1軍は雲の上の存在でした。当時は野手も含めて1、2軍の入れ替えも少なくて、入れるわけがないと思っていました。


 だが、1年目の8月13日に1軍昇格の機会が巡ってきた。金石投手が肘を痛めてことによる入れ替えだった。


 川島 2軍は広島市民球場でデーゲームでした。そこで首脳陣に「お前、1軍に上がりたいか」と聞かれて「はい」と答えた。そうしたら「じゃあ、このまま夜も残れ」と言われました。ナイターで1軍の試合だったんです。


 そこまでウエスタン・リーグで4勝6敗、防御率3・33の成績を残していた。昇格時、当時の阿南準郎監督が「最初は楽な場面で投げさせたい」とコメントしているが、なかなかその場面は巡ってこなかった。


 川島 1軍には上がったけど、しばらく登板の機会はありませんでした。敗戦処理が役目ですが、ピッチャーがいいから試合が壊れないから出番がない。一番下なので雑用係とブルペンで投球練習するだけの毎日でした。


 1軍昇格から約1カ月は出番のない試合が続いた。チャンスは9月16日に訪れた。高校時代に慣れ親しんだ甲子園での阪神戦。川島さんは球場に到着して、忘れ物に気付いた。コンタクトレンズだった。プロに入り、ナイターで捕手のサインが見えにくいと感じて使うようになった。


 川島 忘れたと気付いたけど黙っていました。その日の先発は大野さんでしたから、どうせ出番はないだろうと思ったんです。でも、その日に限って大野さんが打たれて、ブルペンに「次の回いくぞ」と電話がきた。


 先発の大野投手が4回途中6失点でKOされた。この回は紀藤投手が後続を断ち、次の5回から川島さんがマウンドに上がった。

 投球練習を終えると、達川光男捕手がサインを打ち合わせるためにマウンドまできた。


 川島 そこで打ち明けました。達川さんに「すみません。今日コンタクトを忘れました」と言ったら「バカタレ!」と怒られた。でも、すぐに「よっしゃ、分かった」と言って戻っていった。何が分かったのかなと思っていたら、おなかの前で大きくサインを出してくれました。すごい見やすいんですよ。


 達川捕手といえば、ホーム付近でコンタクトレンズを落として探す姿がテレビ番組の珍プレーで取り上げられていた。その達川捕手に、コンタクトレンズのことで叱られた。


 川島 達川さんは本当に頭のいい方ですよね。一瞬で「よし分かった」ですから。1回を抑えてベンチに戻ったら「大野だって打たれるんじゃ。きっちり準備をしておけ」と怒られました。


川島さんは東京・小平市で一橋整骨院を経営している
川島さんは東京・小平市で一橋整骨院を経営している

 1年目は未勝利に終わったが、2年目の1989年(平元)に初勝利を挙げた。4月29日、やはり甲子園での阪神戦だった。9回5安打1四球で1失点の完投勝利だった。


 川島 この時も達川さんのおかげです。ブルペンで調子が悪かったんですが、達川さんは「あまりよくないな」と言った後で「よっしゃ、任せておけ」と言ってくれた。もうサイン通りに投げるだけでした。それまでは内容がよくても勝てなかったのに、この日は調子が今イチで勝てました。


 ただ、この時の不調は長引いた。初勝利の後、中4日で5月4日のヤクルト戦(広島)に登板すると、4回1/3を7安打3失点で途中降板した。さらに同18日の阪神戦(広島)は1回1/3を4安打3四球の6失点でKOされた。


 川島 初勝利の後で中4日ですよね。なかなか球が走らなかった。この年から山本浩二さんが監督になって、キャンプから競争が激しかった。私も飛ばしていたんで、もうヘロヘロになっていていたんでしょう。結局この年は1軍と2軍を行ったり来たりでした。


 この年は8月6日にもう1度先発している。先発予定だった北別府投手が右肩の異常を訴えて回避したため、緊急的な昇格で先発した。だが、4回5安打3失点で降板となり、チャンスを生かせなかった。

 翌90年は1軍に入れなかった。結果を残せず、首脳陣からフォーム変更を指示された。高校時代、「甲子園で最も美しい」と評されたフォームだったが、プロでは欠点と評された。


 川島 プロとすれば迫力に欠けていたのでしょう。「このままじゃ終わってしまうよ。イメージを変えないとダメだ」と言われて、スリークオーターで投げるようになりました。


 高校時代からの力みのないフォームは理想的に見えるが…


 川島 結果が出れば何も言われないんですよ。でも、結果が出ていないから仕方がない。言われたらやるしかなかった。


 フォームを変更して2カ月ほど過ぎた5月中旬、川島さんの右肘に異変が起きた。(つづく)【飯島智則】