東京都内は雪化粧をまとうような寒さが続くが、季節は球春に近づいていく。プロ野球より一足早く、18日に第96回選抜大会が開幕する。

1995年1月17日の阪神・淡路、2011年3月11日の東日本と、大震災の直後にセンバツは開幕を迎えた。今年の1月1日、能登半島を大きな揺れが襲い、多くの方が被災した。新年が始まったばかりの元日が、またつらい1日になった。甚大な被害を受けた地元から、北陸勢が甲子園にやってくる。

1月26日、センバツ出場が決まり笑顔でガッツポーズする日本航空石川の選手たち
1月26日、センバツ出場が決まり笑顔でガッツポーズする日本航空石川の選手たち

「球春」という言葉を聞くだけで、心は浮き立つ。だが、本当に野球は被災地の勇気になるのか。被災者を支える力になるのか。95年も11年も、自問自答しながらセンバツの記事を書いた。パソコンキーの上で手が迷うたび、95年に取材した神港学園(兵庫)を思い出した。95年は被災地の兵庫県から3校がセンバツ出場校に選ばれ、神港学園もその1校だった。

震災で在校生2人が亡くなった。1人はブラスバンド部員で、センバツの応援演奏を心待ちにしていた。1月下旬には、野球部OBの50歳の父親が急死した。神戸市内の自宅が全焼し、経営する米穀店も全壊。自身が被災しながらも町の見回りを受け持ち、不眠不休の活動の末に心筋梗塞を起こした。胸がつぶれる思いで仏前に線香をあげた野球部の北原光広監督(当時)は「年配の方が身を削っておられる。自分たちにも何かできることはないか?」と考え、部員たちを連れて避難所の掃除、布団上げなどのボランティアを始めた。

だが神港学園の行動を追うメディアの姿にいらだった避難所の担当者から「売名行為なんか、やめろ!」と厳しい言葉を浴びた。よかれと思って始めたことでも、善意は伝わらなかった。センバツ開催が正式に決まったとき、テレビカメラの前で北原監督が部員を思ってもらした一言が視聴者の怒りを買い、学校に抗議の電話がかかってきた。学校名入りのバスの中、部員たちは身を潜めるようにして練習場に向かった。

95年センバツ、準々決勝で敗れがっくり膝をつく神港学園・杉本祐樹
95年センバツ、準々決勝で敗れがっくり膝をつく神港学園・杉本祐樹

「とても野球なんてやれる状況じゃないという気持ちでした。たとえセンバツで兵庫のチームが元気に野球をやったとして、それが被災地を勇気づける行為になるのか? 亡くなった親が帰って来るのか? そんな思いでした」

勇気は与えるものでも贈るものでもなく、相手がそう受け止めてこそ、活力、希望になるもの。監督は悩み抜いた。センバツは歓迎されないのではないかという不安と、部員たちを日頃の練習の成果を披露する場に立たせたいという渇望。相反する気持ちにさいなまれ、心も体もヘトヘトになった。

そんな監督を救ったのは活動再開後、生き生きと練習に取り組み、状態を上げていった部員の姿だった。「これなら3日で仕上がる」と監督が確信したチームは、センバツで8強入り。延長13回を戦った準々決勝・今治西(愛媛)戦は、善戦をねぎらう観客の拍手とともに試合終了のサイレンを聞いた。

95年4月、第67回選抜高校野球決勝で優勝し、喜ぶ観音寺中央ナイン
95年4月、第67回選抜高校野球決勝で優勝し、喜ぶ観音寺中央ナイン

95年の大会を制した観音寺中央(香川)は、大会開催への感謝を決戦終了時の笑顔だけで静かに表した。日頃から監督に「高校野球の選手である前に、1人の学生」と教えられてきた部員たちの、自発的な行動だった。11年は甲子園練習で東北(宮城)がグラウンド入りした際、内野スタンドに静かで温かい拍手が広がり、チームを迎えた。開会式の創志学園(岡山)・野山慎介主将の「がんばろう、日本!」の選手宣誓は今も耳に残る。

誰かが誰かを思い、力を尽くす。その気持ちが攻守の好プレーや、思いやりにあふれた行動に姿を変える。大会を振り返ったとき、のちのち温かい思いで語れることが起きればいいなと思いながら、13日間を追う。【堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)

11年センバツで選手宣誓する創志学園の野山主将
11年センバツで選手宣誓する創志学園の野山主将