現在、山形商を率いる渋谷良弥監督(68)は今年、監督生活44年目を迎えた。母校の日大山形で30年(72~01年)、青森山田で10年(02~11年)、計40年間で22度(夏18度、春4度)の甲子園に導いた。通算16勝(夏13勝、春3勝)は東北屈指だ。12年、故郷・山形市のスポーツアドバイザーに招かれ、山形商監督に就任。今もなお、孫同様の選手たちと“聖地”を目指している。

孫同様の選手たちを指導する山形商・渋谷監督
孫同様の選手たちを指導する山形商・渋谷監督

 紆余(うよ)曲折の野球人生が指導者としての原点だ。公立高の受験に失敗して入学した山形第一から本格的に野球を始めた。日大と合併した1年秋から“日大山形1期生”になり、2年夏はチーム初の甲子園出場に貢献。だが背番号10の控え投手は聖地のマウンドに立てなかった。日大でも控えで、電電東北(宮城=現東北マークス)の入社に失敗。金指造船(静岡)では1年目に右肩を故障。コーチに転身したが、3年目で休部になった。

 渋谷 球拾いに草むしり。補欠の気持ちはよくわかる。甲子園もグラウンドに立ったのは開会式だけ。もう1度甲子園に来たいと思った。毎年、夏の(地方大会)開会式2日前にレギュラーを発表するが、その日が一番つらいね。

 25歳の時に日大山形の監督に就任。8年ぶりの母校は髪形や服装など風紀が乱れていた。厳しい練習を強いる一方、自ら率先して、後にトレードマークになる五厘刈りにした。

 渋谷 当時20人いた3年生は2人だけになった。春の県大会は1回戦でコールド負け。夏も初戦敗退。でも秋は夏を経験した1、2年生7人が残った。夏休みは勝てそうな相手を選んで自信にした。1年生のエースは左の軟投派で球速100キロくらいかな。8割がカーブで、当時は左投手の変化球に慣れていなかった。

 苦労人ならではの眼力で県大会と東北大会を制し、以後、数々の「山形県勢初」を記録する。73年春に初の選抜出場。5-2で境(鳥取)を下し、春夏通じて甲子園初勝利。同夏も2-1で鹿児島実を破り、夏の甲子園初白星。79年夏は初の1大会2勝を挙げた。

 渋谷 それまでは「選抜に出ていない県が1県ある」とクイズ番組にも取り上げられるほどだった。1つ勝って俺も選手も大満足よ。夏も運よく鹿児島実に接戦で勝てた。春に出たという余裕もあったね。

04年8月、甲子園練習でエース柳田の投球を見守る
04年8月、甲子園練習でエース柳田の投球を見守る

 渋谷の野球は、バント、走塁、キャッチボールといった基本を大事にし、戦い方や戦術は選手によって変える野球。昨今、夏の甲子園では打撃力がないと勝てないと言われているが、「やっぱり野球は投手。ピッチャー中心に失点を少なくして守りきる」という信念は変わらない。青森山田でも就任初年度の02年夏に甲子園出場。04年夏からは6年連続出場を果たし、05年から同一監督として史上初の甲子園4年連続完封試合も記録。さらに05年春には同校初のセンバツ出場にも導いた。

 渋谷 (選手の)技術は40年前よりも向上した。でも下手でも頑張ることが大事。野球に限らず、今は何が何でもという気持ちが薄れている。昔は10のうち2ほめる。今は逆。8ほめて2怒る。アメとムチ。本当に難しい。

 就任3年目の山形商グラウンドには「行くぞ甲子園!!山商魂」の横断幕が掲げられている。

 渋谷 私立と対等では勝てない。相手を何とか慌てさせる。相手が予想しないことをする。(日大山形、青森山田時代の)私立時代はセオリーを無視してくる監督が嫌だった。目的は心と体の人間形成。目標は甲子園出場。夢よ、もう1度だよ。(敬称略)【佐々木雄高】