2005年(平17)春、羽黒は春夏通じて山形県勢初の4強入りを果たした。エースはブラジル人留学生、監督は米国育ち。日本語、英語、ポルトガル語の3カ国語が飛び交う個性派集団だった。攻守の要として活躍した押切卓也捕手(28=現在)が振り返る。

04年11月 明治神宮大会の愛工大名電戦での羽黒・押切(左)と片山
04年11月 明治神宮大会の愛工大名電戦での羽黒・押切(左)と片山

 押切が知っているポルトガル語は、落ち着けを意味する「ヘラーシャ」だけ。それでも、日系ブラジル3世のエース、片山マウリシオとの息はぴったりだった。

 押切 あいつは、入学から1年ちょっとで日常会話が出来るようになり、コミュニケーションに困ることはありませんでした。それから、一切首を振らない。ポーカーフェースですが、目で納得していると分かる。必ず構えたところにボールが来ました。

 05年3月27日、八幡商(滋賀)との初戦。延長戦にもつれたが、12回裏相手投手の暴投により2-1でサヨナラ勝ち。押切は3安打を放ち、片山の181球完投を導いた。

 押切 きつくて、つらかったですが、マウリシオは最後まで切れも球威も変わりませんでした。

 片山の最速は135キロにすぎない。スライダーやチェンジアップなど多彩な変化球を丁寧に投げ、打者をかわすピッチャーだった。如水館(広島)との2回戦も、東邦(愛知)との3回戦もそれぞれ2失点以下で完投と粘投した。

 そんな片山を野手も援護した。羽黒は全体練習より自主練習が長い。「みんな打撃が好きだから、そればかり練習していました」と押切は言う。米国育ちで、指示に英語が混じる横田謙人監督(現東北公益文科大監督)の方針で、打撃フォームも自由。片山が点を取られても、打ち返すチームだった。レギュラーは片山の他にブラジル人が2人。千葉出身の押切を含め県外出身者がほとんどだった。

 押切 むしろ(県外出身者ばかりであることに)誇りを持っていました。ブラジルのみんなはハングリー精神がすごい。あいつらより長く練習しようと思ってやってました。

 試合前の円陣の掛け声は「Yes we can!」。勢いに乗り、山形県勢初の4強入りを果たした。

 4月3日、神村学園との準決勝の朝。押切は甲子園球場前で4校の名前を見て、鳥肌が立った。

 押切 2試合しかないんだ、と。1試合目で愛工大名電(愛知)が決勝進出を決めていました。秋の神宮で負けた相手だったので、「ここでリベンジするぞ」と気持ちが先走ってしまいました。

 初回、安打と失策が絡みいきなり3点を失った。片山の得意とする外角のチェンジアップを完全に読まれていた。

 押切 打たれてから狙われていると気付きました。僕のミスです。その後、内角攻めに変えました。それまで内を攻めることはあまりなかったのですが、マウリシオはきっちり最後まで投げてくれた。試合の後、「気付くのが遅くてごめん」と謝りました。

05年春の羽黒の成績
05年春の羽黒の成績

 約3カ月後。山形県決勝で酒田南に延長10回5-8で敗れ甲子園には戻れなかった。その試合で、押切は初めて片山が崩れるのを見た。

 押切 上にすっぽ抜ける暴投を初めて投げて、やばいな、と感じていました。全部球が浮いて、苦しそうだった。悔しかったけど、マウリシオのせいだとは思えない。あいつで勝ってきたので。

 高2の春に遊撃手から捕手に転向した押切にとって、構えた場所に必ず投げてくれる片山は、捕手の楽しさを教えてくれた最高の投手だった。「他の投手の球を受けても面白くないんです」。千葉市内で会社勤めをしながら、週末にクラブチームで軟式野球を続けるが、今は遊撃手が本職だ。(敬称略)【高場泉穂】