多賀が麻生との延長12回、3時間19分に及ぶ激闘をサヨナラ勝ちで勝利した。

 左目の失明寸前から復活したエース有馬悠大投手(3年)が、12回全て、154球を投げきり完封した。

 互いに点が入らず0-0で迎えた9回表、2死二、三塁。有馬はピンチの場面でもきっちりとストライクに入れ、三振を奪いガッツポーズ。10回2死二、三塁3ボールと追い込まれた場面でも2つのストライクをきっちり入れる。フルカウントで打たれた投手ゴロも丁寧にさばき3アウト。ガッツポーズしながら大きくほえた。決着がつかないまま迎えた延長戦12回裏。先頭打者、平山侑樹三塁手(3年)が左方向への二塁打で塁に出ると、篠崎宏斗一塁手(3年)もエラーで出塁。続く鈴木龍之介中堅手(3年)も四球を選び、無死満塁。志田龍音右翼手(3年)が4球目を右方向へサヨナラ安打を放ち、多賀が勝利を収めた。

 歓喜の輪の中心で、大粒の涙を流したのは有馬だった。「報われた」。チームメートと抱き合い、ぐしゃぐしゃになって喜びをかみしめた。校歌も、何度も涙を拭いながら歌った。網膜剥離の病気を患い約1年チームの練習から離れた有馬が、こうしてマウンドに立つことさえ「奇跡」だった。

 有馬は、1年秋からエースとして期待された右腕だった。秋の県大会でも登板し、冬季練習で体作りをしようとした矢先の1月。朝、目覚めると左目が真っ暗だった。病名は網膜剥離。「左目が見えなくなって、野球もできなくなるかもしれない」。突然のことに、母加代子さん(42)と一緒に不安に押しつぶされ、泣いた。チームの練習からも離れ、2月と4月に視力を回復するための手術を受ける。しかし再発。6月にも再手術を受けた。入退院を繰り返しながら、毎年同校が夏に向けて開く激励会に向け、病室で手紙を書き記した。「先輩方と一緒に野球をやりたかったです」。有馬は当時3年生の大塚倭さんに「自分の分までお願いします」とグラブを託して、スタンドから先輩方の試合を見守った。

 退院後も医師からは汗をかくことを禁止された。当然ランニングもできない。「自分ができない分、頑張って欲しい」。トンボを持ってブルペンの整備や後輩指導に励んだ一方で、何度も悔しさがこみ上げグラウンドの隅で泣いた。

 8月末、医師からようやく練習許可が下り、ランニングから練習を開始。今も左目は「光が分かる程度」のため、完全に見える右目を頼りに野球ボールを使った練習に励むも、なかなかボールとの距離感がつかめない。冬頃まではキャッチボールでぶつかりそうになる危険な場面もあった。ゴロを捕ることにも恐怖を覚えた。

 ボールがぶつかることへの恐怖と戦いながら、徐々に自分の状態を受け入れ、慣れていく。試合に登板できるまでに感覚は戻り、春の県予選では初めて「1」を背負い復活を果たした。初めて選手として迎える夏に加代子さんは「奇跡です」と目を潤ませる。有馬も「みんなに支えられて、今野球ができることに感謝」と話した。この試合でも、練習復帰当初は怖かった投手ゴロにも果敢に挑み、丁寧に一塁に送球。「ゴロにも自信がつきました」と少し笑った。

 有馬の将来の夢は視能訓練士。「自分が苦しんだ分、人を助けられる人になりたい」。心優しい少年は、2回戦でも野球ができる喜びをかみしめ激闘するに違いない。【戸田月菜】