24年前、甲子園をうならせたビッグプレーは「奇跡のバックホーム」と呼ばれて語り継がれる。第78回大会(96年夏)の決勝だった。松山商の右翼手、矢野勝嗣さん(41)が、サヨナラを狙う熊本工の三塁走者を刺した好返球がそれだ。10回1死満塁を脱すると、二塁打を放ち決勝のホームまで踏んだ。土壇場で一気に輝いた矢野さんは、地元テレビ局を職場に選び、記者としても甲子園を訪れていた。

 ◇  ◇  ◇

矢野さんは現在、愛媛朝日テレビの営業部に属し、副部長を任される。マスコミを選んだ理由をこう説明した。「自分が取材されたんで、取材する側はどうなんだろう、という興味はありました。営業部に異動する前は報道制作にいて、甲子園にも行きました。夢がかなったと思いました」。

15年夏、愛媛代表となった今治西に同行した。早実(西東京)と初戦でぶつかり、相手の清宮幸太郎(現日本ハム)もインタビューした。「僕が『バックホームの人』と聞いていたみたいで、話が盛り上がりました。社会人になって、なんか遠回りしていた自分が、甲子園に行って、初心に戻れたように思います」と振り返った。

矢野さんが決勝の舞台に立ったのは24年前、延長10回裏1死満塁の場面。守備についた直後の1球が頭上を襲った。フェンスに向かって後退し、次には慌てて前進した。目いっぱいの返球。「レーザービーム」にはほど遠い、山なりボールが、それでもノーバウンドで捕手のミットに吸い込まれた。

このシーンを再現しようとしたことがある。16年11月、熊本・藤崎台球場を舞台に、震災復興支援のイベントとして両校OBが対決したときだ。本塁で憤死した星子崇さんから申し入れがあり、矢野さんが受けて実現した。試合後には「10回裏1死満塁」がセットされた。走者も打者も当時のまま。唯一、矢野さんのバックホームだけが違った。「外野の芝と内野の土の境目ぐらいまでがやっと。コロコロ転がって」。20年が経過して、2度目の奇跡をおこす肩はなく、爆笑を誘った。甲子園がまたひとつ仲間の輪を広げてくれた。

球児たちは今、センバツが消え、夏への道も見通せない。矢野さんは取材現場を離れたが、先輩として見守る。「僕は下手くそで、控え選手でしたが、それでもやめず、しがみついた。偉そうなことはいえませんが、3年間はムダにならない。いいことが待っていると思って頑張ってもらいたいです」。自らの経験を踏まえながら、謙虚にエールをおくった。【米谷輝昭】

◆矢野勝嗣(やの・まさつぐ)1978年(昭53)8月24日、愛媛県松山市生まれ。小学校でソフトボール、中学で軟式野球部に所属。松山商に入学後、硬式を始めた。96年、夏の甲子園で全国制覇。松山大に進み、全日本大学野球選手権(00年)出場。卒業後、愛媛朝日テレビに入社。営業局営業部、東京支社、報道制作局を経て、現在は営業部副部長。家族は夫人と2女。

<取材後記>

名門松山商も甲子園は01年夏を最後に出場がない。そんな矢野さんの母校に、新監督が就任した。今治西の大野康哉監督(48)だ。4月1日付の教員人事で異動してきた。同監督は今治西OBで、ひと昔前なら、ライバル校OBの監督就任などありえない話だが、もうそんな時代ではない。

矢野さんも「愛媛県では実力も実績もある指導者です。OBも盛り上がっています」と話した。5年前の甲子園取材で同行した監督でもある。「先日、ごあいさつしてきました。期待しています」。大正、昭和、平成と全国制覇してきた名門が、大野新監督のもと令和の時代に復活するか、注目される。