一関学院が下克上Vで12年ぶりの「王座奪還」を果たした。9回2死。最後の打者を打ち取り、ナインは一斉にマウンドへ駆け寄って何度も右手人さし指を天に突き上げた。

ノーシードからの快進撃は、一気に夏の頂点まで上り詰めた。小松主将は目頭を熱くして言った。

「チーム全員でつながり、3年生を中心にはい上がることができた」

崖っぷちからのスタートだった。昨秋、今春と2季連続で県2回戦敗退。新チームになってからは全く結果が出なかった。「最弱世代」。そう言われることもあった。「まとまりが一切なく、結果も残せなかった」。悔しさを募らせていたが、最後に意地を見せた。グラウンドに出れば、学年は関係ない。練習から本音でぶつかり合い、小松主将を中心に結束。夏本番前に一致団結できた。高橋滋監督(49)は「どん底から、まとまりのあるチームに仕上がってくれた」と、ナインの成長をたたえた。

「つなぐ野球」を徹底し、相手エース斎藤を攻略した。2-2の同点で迎えた6回無死三塁から5番小野唯斗外野手(2年)が中前へ決勝適時打。この試合、全9安打中8本が直球を捉えたもの。大振りを捨て、高めには決して手を出さない。狙い球をベルト付近に絞り、中堅から逆方向へ打ち返した。小松主将は「速球対策として10メートル付近から打撃投手に投げてもらった。目が慣れていた」と最速152キロの剛腕撃ちに向け入念な準備を行っていた。

20年夏は岩手県独自大会で優勝も、甲子園はコロナ禍で幻に消えた。今大会前、高橋監督は選手にこう伝えていた。「一昨年、昨年の先輩の思いも心のどこかに置いて戦っていこう」。当時1年生だった現3年生が結果で応えた。新たな目標「全国8強」を掲げ、待ち焦がれた舞台に足を踏み入れる。【佐藤究】

◆一関学院 1938年(昭13)に一関夜間中学校として創立の私立校。2001年(平13)に一関商工から現校名。生徒数は358人(女子134人)で普通科の中に特別進学コース、体育コースなどがある。野球部は1947年(昭22)創部で部員数は96人。甲子園は夏7度目の出場、春は2度出場。主なOBは元ヤクルト太田裕哉。所在地は岩手県一関市八幡町5の24。小野寺啓一校長。

○…盛岡中央は1点差勝負に競り負け、23年ぶりの優勝を逃した。0-2で迎えた4回2死一、二塁。主将で9番菊池快内野手(3年)に打席が回った。「主将として、ここは打ってチームを引っ張っていかないといけない」。カウント2ボールからの3球目を捉えた打球は右中間を破り、同点適時二塁打となった。だが、6回に逆転を許し、最後まで戦う姿勢を貫いたが、あと1歩及ばなかった。「(同点適時打を打った瞬間は)うれしかったです。試合に敗れて悔しいですけど、やり切ることはできた。胸を張って帰りたい」と振り返った。奥玉真大監督(47)は「悔しいですね。選手は6試合、精根尽きるまでやってくれたと思います。今の3年生は、覚悟して入ってくれて、3年間成長して、すばらしい歴史をつくってくれた」とねぎらった。