悲願の優勝旗「白河の関越え」達成を記念し、日刊スポーツの東北支社、支局に駐在した歴代の高校野球担当記者がさまざまな思いを語る「白河の関越え 思いを馳せる」第10回は、85~89年東北支社在籍の織田健途記者です。

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仙台の東北支社に赴任した85年冬、社内の書棚に気になる背表紙を見つけた。タイトルは「深紅の大優勝旗が白河の関を越えるとき」(カルダイ社)。日本高野連理事も務めた恵美英志さんが監修。東北の球児を励ますための体験談、メッセージが各界から集められ、山田久志氏、落合博満氏ら東北出身選手の提言も紹介されている。東北では本ができるほど優勝が悲願なのだ、と実感した。80年5月の出版から42年後の夏、タイトルはついに現実に。この本を手にしたことがある方々は、おそらく感慨深いのではないかと思う。

実際、取材現場でも「白河越え」は遠く感じた。88年夏、甲子園球場のスタンドで、東北代表校の選手たちと一緒に大会前の打撃練習をのぞいた時のこと。目の前で谷繁元信(江の川)が外野へ大飛球をバンバン放っている。見ていた主将が「あれが谷繁ですか。こんな選手たちには絶対に勝てませんよ」とつぶやいた。戦う前から明らかに気後れしている。結局、この夏は東北6代表の取材で甲子園入りするも、開幕5日目にして6校すべてが初戦敗退。短い出張で現実の厳しさを知った。

当時、山形県高野連理事長の中村博氏との雑談で、85年夏の「PL学園29-7東海大山形」が話題になったのを覚えている。山形県議会で「なぜ勝てないのか」との質問が出るなど、全国的に有名になった試合。中村氏は「あの日の晩、朝が来るのが怖くて仕方がなかった。大阪のホテルで一睡もできなかったんですよ」と明かしてくれた。山形県勢がどのように厳しく報道されるのだろうと、気になって眠れぬ夜を過ごしたという。

80年代からあった関係者の深刻な思いは、強化策を突き動かしていく。一部の例だが、山形県では元日本生命監督の佐竹政和さんが県内を巡回指導したり、中学生による硬式球練習、東北各県で独自リーグを増やして実戦感覚を養うなど、具体的な取り組みが次第に進んでいった。

今の東北にはもう、谷繁クラスの打撃練習にビビる選手などいないのだろう。【85年12月~89年4月東北支社、織田健途】