エンゼルス大谷翔平投手の二刀流メジャー挑戦が大きな話題となっている今、イチローがメジャーデビューした2001年のときのことに、あらためてスポットライトが当たっている。

 当時、日本からメジャーに移籍した選手はすでに野茂英雄氏、伊良部秀輝氏らがいたが、日本から野手がメジャーに挑戦するのはその年が初めて。どれだけ通用するのか、前例がないだけに誰にも想像がつかず、大きな議論の種にもなっていたし、注目度とインパクトは大変なものだった。メジャーリーガー・イチローの誕生は、米球界にとってもひとつの歴史を刻む瞬間だった。

 2001年当時、マリナーズのGMを務めていたパット・ギリック氏(80=現フィリーズ上級アドバイザー)が、12月8日付のESPN電子版で、当時を振り返り、こんな回想をしている。「日本の球場はメジャーよりも狭いし、日本プロ野球は3Aレベルというのが大方の評価だった。そんな日本からメジャーにきて、うまく適応できるのか、疑う声があったのは事実だった。でもイチローを迎える我々球団内部では、暗黙の了解のように、みんながある感覚を共有していた。ねえ、イチローを成功させるために、我々にできることは、すべてやりたいよね。そんな感覚だった」。

 シアトルには、日本のメディアはもちろん全米のメディアも殺到し、取材依頼はさばけないほど舞い込んだ。さらに、スポンサーからの依頼も続々と入っていたらしい。イチローがメジャーでの17年間で最もスポンサー契約料が多かったときは年間総額700万ドル(約8億500万円)に上り、これはメジャー史上2番目の高額記録だそうだが、デビュー当初はそれでもスポンサーからの依頼はむしろ断ることの方が多く、もしすべて依頼を受けていたらスポンサー料だけで総額5000万ドル(約57億5000万円)を超えたかもしれないもいわれている。

 米マネジメント会社スポーツ・プレスメント・サービスのハーラン・ワーナー氏はMLB公式サイトの記事で「イチローが最初に米国に来たとき、彼はそれらすべての契約を望まなかった。あるとき、彼の当時の代理人であるトニー・アタナシオ氏のところへ、撮影のために3時間費やすだけで100万ドル(億円)単位の金額になるスポンサーの契約話を持って訪ねていったことがあった。しかしトニーは、イチローにそれをやってくれとは言えないと、首を縦に振ってはくれなかった」と回想している。このエピソードだけでも、イチローの注目度の高さ、影響力がいかに大きかったかが分かる。

 あれから17年。二刀流という、これまで誰も挑戦していないことをやろうとする大谷が、間もなくデビューする。それが、また新たな歴史を刻む瞬間になることは、間違いないだろう。【水次祥子】

(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「書かなかった取材ノート」)