おなかいっぱい野球を楽しんで-。阪神鳥谷敬内野手(37)と聖望学園(埼玉)硬式野球部で同期だった宮崎広春さん(37)が今春、母校のコーチに就任した。選手としてプレーした東北福祉大、鷺宮製作所でコーチも歴任し、満を持して母校の指導者に復帰した。高校3年夏には4番主将として鳥谷らと同校を初の甲子園出場へけん引。背番号1と親交が深い宮崎さんは今、野球人生の岐路に立つ仲間に何を思うのか。【取材・構成=佐井陽介】

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見渡せば畑が一面に広がる。埼玉・飯能市。緑豊かな道のりを進むと、聖望学園野球部の下川崎グラウンドは現れる。宮崎さんは真っ赤な夕焼けに照らされながら、「さあ行こう!」と高校球児顔負けの大声を張り上げていた。

母校のユニホームに袖を通すのは99年夏以来。懐かしそうに約20年前を思い返した後、かけがえのない友「トリ」への思いを言葉に変えた。

「頑張っている人に、これ以上『頑張れ』とは言えませんよ。だから、もう好きにしてもらったら、という感じです。自分が納得するまで、おなかいっぱいになるまでプレーしてもらえたら、と思っています」

曲がったことが大嫌い。真っすぐで兄貴肌な性格を岡本幹成監督からも信頼され、聖望学園3年時には主将を務めた。高校通算37発の勝負強い打撃を武器に、3番鳥谷と強力打線を構築。最後の夏は同校初の甲子園出場に導いた。

東北福祉大進学後も4年時に副主将を任され、社会人チームの鷺宮製作所でも活躍。現役引退後は同製作所、同大で計6年コーチを務め、この3年間はいちサラリーマンとして会社業務に専念していた。

そんなころ、岡本監督から母校への復帰を要望された。「鳥谷はプロで頑張ってくれている。宮崎はチームに戻ってきてほしい。そういう風にずっと思っていた」-。恩師の思いを受け、迷わず覚悟を決めた。

「もう『ありがとうございます!』のひと言ですよ。キャプテンとして甲子園に連れて行ってもらった。今度はコーチとして監督さんを甲子園に連れて行きたい。それだけです」

昨年末には鳥谷にも正式に報告。「お互いしっかりやろうぜ」。そんな誓いも胸に、1月31日付で鷺宮製作所を退社。2月1日付で聖望学園の保健体育教員に就き、野球部コーチのキャリアをスタートさせた。

すでに練習全体の統括も任され、部員約80人とマネジャー勢を束ねる立場。「大学、社会人と違って、指導に教育が入ってくると全然違いますね。まずはコミュニケーションをたくさん取っています」。まだまだ試行錯誤の毎日だ。

直近の目標はもちろん夏の甲子園出場。ただ、激戦区の埼玉には今春センバツに出場した春日部共栄の他にも浦和学院、花咲徳栄ら強豪校がズラリそろう。聖望学園は09年夏以来、聖地の土を踏めておらず、秋季埼玉大会は準々決勝敗退。決して簡単な道のりではないが、泥臭く這い上がろうとしている背番号1の姿を見れば、力が湧く。

鳥谷とは3月下旬にも食事を共にした。かつての盟友は5年契約の最終年を迎え、現在打率1割台と苦しんでいる。

宮崎さんが今思い描く夢は、「令和」突入後に復活した友から聖地をレンタルすること。

「甲子園出場を決めて、トリに『球場借りるぞ』って言いたいですね。『後輩のためにトンボかけといて』ってね」。

◆宮崎広春(みやざき・ひろはる)1982年(昭57)3月31日、埼玉・鶴ケ島市生まれ。聖望学園では1年秋から一塁手でベンチ入り。3年夏は主将として甲子園出場。高校通算37発。東北福祉大では1、2年時に左手尺骨を4度手術するも、4年時は副主将を務めて全日本大学野球選手権の準決勝では本塁打も記録。鷺宮製作所でプレー後は同製作所、東北福祉大でコーチも歴任した。家族は妻と2女1男。