「ID野球」と並ぶ野村監督の枕ことばが「再生工場」だ。眠っていた力を次々と開花させ、チームに欠かせない柱にまで育て上げた。ダイエーからヤクルトに移籍した96年に12勝を挙げ「最高傑作」と称された田畑一也氏(50)が振り返る。

野村監督との出会いは、ダイエー(現ソフトバンク)からヤクルトにトレードされてからです。それまで鳴かず飛ばずだった私を育ててくれた恩師です。今、富山で独立リーグの監督を務めさせていただいていますが、野村監督との出会いがなければ間違いなく、今の私は存在しません。

眠っていた闘争心を思い出させてくれました。ヤクルト移籍1年目、開幕から先発ローテーションに入れてもらったのですが、すぐに1勝した後に4連敗。中継ぎに降格させられました。その時に「お前の腰の回転は横。サイドで投げてみろ」と言われました。しかし、当時の自分は納得していません。悔しくて「見ていろ!」とばかりにオーバースローのまま投げ、結果を出しました。登板後、野村監督に呼ばれました。

サイドで投げなかったのを怒られるのかと思っていましたが、そうではありません。「お前に足りないのは、今日みたいな“なにくそ”という闘志。忘れるな」という言葉にハッとしました。ダイエーではろくな活躍もできず、自分の中には負け犬根性が染み込んでいたのです。

そのシーズンは12勝を挙げ、翌年は15勝。根性だけでなく、カウントの特性や配球について学びました。その経験は現役を辞めてからも、スコアラーとして役立ち、今の自分を支えてくれる財産になりました。本当にありがとうございました。ゆっくりと休んでください。