ブルージェイズなどでメジャー通算2276安打を放ったトニー・フェルナンデスさんが亡くなった。

あえてフェル様と書きたい。私の7年間と短かった野球記者生活で、最も印象に残り、メジャーのすごみを教えてくれたのが、2000年、1シーズンだけ西武でプレーしたフェル様だった。

1999年、西武はルーキー松坂大輔が16勝しても優勝を逃した。怒った堤義明オーナー(当時)が、元大リーグコミッショナーのピーター・ユベロス氏を頼りに獲得したのが、当時メジャー通算2260安打、ゴールドグラブ5回を誇るフェル様だった。獲得発表は堤氏自ら、コクド本社で行った。それだけでも異例だったが、来日すると驚くべき日々が続いた。

キャンプ合流初日、室内練習場で行ったのは、5メートルのゴムチューブの先にフックが付いた器具で、弾丸のようにダッシュすると、反動で同じようなスピードで戻ってくる。大リーグボール養成ギプスか? 守備練習はゴロを転がしてもらい、正面に入り腰を落としてわざとトンネル。それを何度も繰り返した。

日本流の斜め前からトスを上げるティー打撃を嫌い、自前のティースタンドを持参した。フリー打撃では、ベースの角にボールを置き、インパクトの位置を確認した。マイペース調整を希望したが、紅白戦で松坂の投球を目にすると、飛び入りで打席に入った。連戦や移動などで疲れた時は、打撃練習を休み、ミラールームで眠ったため、他の選手は素振りを遠慮した。

松坂が先発した開幕戦、三塁フライを落球した。遠征先の秋田八橋球場の整備係が使っていたハンマーを気に入り、直談判して譲り受け、素振りに使った。全力疾走すると必ずヘルメットが落ちるため「フェルメット」と呼ばれた。ちなみにサイズはLナンデス。

これだけ書けば、ただの変わり者だが、ここぞの集中力は劇的な一発を生んだ。8月末、故郷ドミニカでお兄さんが亡くなった。葬儀のため帰国する直前の一戦、延長10回の打席で「強くたたける球だけを待った」とファウルで粘り、10球目をサヨナラ本塁打した。試合後、普段は断るお立ち台に上がったが、兄については絶句して語れなかった。

38歳で故障がちで高年俸のため1年限りで退団したが、打率3割2分7厘、11本塁打と数字は残した。それ以上に、ルーティンを大事にして、やるべきことは徹底する姿勢は、メジャーにあこがれていた松井稼頭央や松坂ら若手に大きな影響を与えた。さよなら、トニー。ありがとう、フェル様。敬虔(けいけん)なクリスチャンでした。幼い子のほおにキスしたら、泣きだされたこともありましたね。安らかに、お眠りください。【00年西武担当・久我悟】