2004年11月2日生まれの東北楽天ゴールデンイーグルスが、15歳と10カ月で通算1000勝に到達した。球界再編の動きから、50年ぶりのプロ野球界新規参入。“難産”となったが、三木谷浩史オーナーをはじめ、フロント、首脳陣、選手、スタッフの尽力で育まれた。寒冷地の東北に根付き、ファンとともに歩んだ道のり。節目を通過点に“大人”への階段を上り続ける。

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「想像できないですよ。1年目は38勝ですから…」。1勝の重み。球団創設初年度から、ただ1人ユニホームを着続けている小山伸一郎投手コーチ(42)は感慨深く言った。

38勝97敗51分け。100敗寸前のスタートから“16歳”で大台に届いた。

2004年11月2日。東北楽天ゴールデンイーグルスが産声を上げた。同学年は鈴木福と芦田愛菜。冬のソナタのヨン様旋風に、アテネ五輪の「チョー気持ちいい!」。50年ぶり、21球団目の新規参入に三木谷オーナーが掲げた思いは「遠くの大リーグより、近くのプロ野球」。当時の米田代表は「シドニー」という準備室で連日徹夜して新規参入申請書を作成した。三木谷オーナーもグラブを手に室内でキャッチボールして眠気を飛ばした。

11月13日、藤井寺球場で初の全体練習。「小学生みたい」とスタンドの中学生がつぶやいた。真っ白な練習着の胸には、メーカーと「楽天」の企業ロゴだけ。翌春の久米島キャンプは1つの球場で1、2軍が合同で練習を行った。中日から加入した小山投手コーチは「同じ球場でやるのは初めてだったので、みんな動きは良くなかったですね」。寄せ集め集団は、試合中のサイン作りも手探り。宿舎でおのおのが声を出し合い、すり合わせた。

05年3月26日、ロッテと対戦し、エース岩隈が1失点完投勝利。バックネット裏の球団関係者が陣取る部屋から「やったぞ!」と歓声が響いた。

希望はあっという間に散った。翌日、0-26の歴史的大敗。翌日、都内から福岡へ飛んだ三木谷オーナーはミーティングに参加。今も室内練習場の壁にボードとして残る、詩人ウォルター・D・ウイントルの詩「すべては心の持ち方次第である」を読んだ。

「もし負けると考えたら、負けるだろう もし挑戦しないと考えたら、できないだろう もし勝ちたかったら、しかし、勝てると考えるな 求めなければ勝利は絶対つかめない」

負けまくった。小山コーチは「毎日試合をこなしている感じ。ゲームの反省もなく『寄せ集めだからしょうがないな』という雰囲気も、少しはあったのかなと思う」。それでも東北のファンは温かい。ファウルボールがスタンドに入るだけでも拍手が起こる。

“0歳期”を駆け抜け、“1~4歳期”は土台づくりにいそしんだ。2年目から就任した野村克也監督は「どこをどうすれば、弱者が勝者になれるかツボは押さえているつもり」。手間暇かけて種をまいた。

春季キャンプは毎晩ミーティング。「考える野球」を植え付けた。09年の2位で球団初のCS進出を果たした。06年大学・社会人ドラフト5位で入団した渡辺直人選手兼コーチは言う。「1つ勝つのは本当に難しいなと。ただ野村監督のおかげで今がある。球団に今も野村監督の思いが伝わっているかは分からないが、OBや、今はいない球団職員さんの頑張りが積み重なって今がある」。

“6~9歳期”に実を結んだ。11年から4年間、星野仙一監督が勝利への厳しさを降り注いだ。中日時代も指揮官の下で戦った小山コーチは「『勝つ集団』への意識を植え付けていただきました。中日時代に比べてだいぶ丸くなっていましたが、周りにはギャップもあったと思う。僕は免疫がありましたが…」と頭をかく。知将の「考える野球」×闘将の「勝つ集団」。13年にリーグ優勝、日本一し“8歳”で頂を見た。

2020年、7月のある日。雨空の仙台。陽気なタクシー運転手の声が弾んだ。「ファンにとってイーグルスは“子ども”のようなもんですからね。今年こそ優勝してほしいよね」。

通算2220試合、1000勝1167敗53分け。ファンは父であり母。大人へと成長する歩みを見守っている。その道程を目の当たりにできるこの上ない喜びが、新規参入のイーグルスにはある。

楽天生命パークでは試合開始直前、守備位置につく選手をファンの親子がベンチ前から送り出すイベントがある。その際、電光掲示板にはスターティング“ファミリー”と表示される。【桑原幹久】