グリーンスタジアム神戸の空に響く「ライト・フィイィールダー! イチロォー スズゥーキー!」のアナウンスは、オリックス黄金時代の代名詞でもあった。91年から00年までオリックス・ブルーウェーブのスタジアムDJを務めたのが、DJ KIMURAこと木村芳生氏(58)。ディスコブームの最前線で培ったパフォーマンスと最新の音楽で選手を彩り、95&96年の優勝に一役買った。オリックスが神戸で見せた夢の担い手の1人だった。【取材・構成=堀まどか】
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かつての本拠地が、DJ KIMURAを待っていた。9月15日から17日にかけて開催されたイベントで、今はほっともっと神戸に名を変えた球場の懐かしいブースに腰をおろした。
木村 いつもの居場所に戻ってきた感じでした。
ファンの歓声を、あの時と同じ場所で聞いた。
日本球界初のスタジアムDJは30年前、雪山から生まれた。木村のスキー場でのDJパフォーマンスを耳にしたスポーツ紙の記者から、オリックスのスタジアムDJ募集を教えられて応募。アナウンスの専門家やラジオDJが居並ぶ中、クラブDJという異色の存在が球団ニーズに合致した。阪急からの球団譲渡で88年11月に誕生したオリックスは91年、本拠地を西宮からグリーンスタジアム神戸に移転。新本拠地をメジャーばりの空間にしようというボールパーク構想のもと、選ばれたのが木村だった。
木村 見本も何もない。ただ好きにやっていい。応募してきたからには、案があるよねって言われて。
クラブではDJのかける曲、発する言葉が客を動かす。曲もトークもかっこよくなければ、しらけた反応がDJめがけて押し寄せる。そんな緊張感の中、最先端の音楽に通じたディスコフリークと渡り合ってきた。同じスタイルで勝負しようと、覚悟を決めた。ターンテーブル、ミキサー、レコードを球場に持ち込んだ。球団の上司は「何かあったら、俺が責任取るから」と言ってくれた。名将からも心強い言葉をもらった。
木村 上田利治前監督に聞きに行ったんです。こんなやつが球界に出てきたら、イヤですよねって。そうしたら『何言ってんだ。好きなようにやっていいんだよ。今までが古くさいんだから、がらっと変えた方がいい。好きにやりなさい』と言ってくださった。なんてすてきな人だろうって。その言葉に救われました。
オリックスの選手1人1人と膝詰めで話し、1人1人に登場曲を選ぶことを伝えた。好きな曲を選手が選ぶのではなく、選手の特徴、個性を理解した上で木村が選ぶことを伝えた。
木村 たとえばスピードスターだったら、よりその音楽をかけて、かっこいいスピードスターっぽい音楽を選んで、相手チームがその選手をレベル7くらいと思っていたのが、音楽と曲紹介によって相手が感じるレベルを上げる。1万分の1、10万分の1でもチームの力になれたらいいなと。気持ちの中で選手と一緒に戦っていたんです。
熱意に打たれた選手から「お前がかっこいいと思った曲をかけてくれ。で、かっこよくDJしてくれ」と同意を得た。期待に応えようと奔走した。選手60人に対し、準備した楽曲は約300曲。発信する楽曲は常に最新の曲と決めていた。オフはニューヨークに飛び、白い息を吐きながらレコード店を回った。話術は、自宅のある京都と神戸の行き来で磨いた。
木村 ゆっくり2時間かけて行く車の中で選手にかける音楽をかけて、ずっと声を出すんです。どれが一番かっこいいかなと考えながらやって、これって決める。そしたらもう、ワクワクしてくる。
発音も工夫した。冬はハワイでサーフィンをしながら過ごし、本場の英語に触れてきた。ボールパークにふさわしいアナウンスにしようと「サードベースマン」も「サードベースメン」とコール。上田のあとにチームを率いた土井正三が、気付いてくれた。一見、気難しい野球人に見えた土井が、木村とは気さくに野球談議をかわした。勝利に貢献しようと奮闘する思いが、伝わっていた。
選手を輝かせる曲を選び、レコードをかけ、声を張り、95年のオリックスとしての初優勝を迎える。監督は仰木彬だった。同じ飲食店に居合わせると木村たちの会計もすませ、黙って立ち去るスマートな遊び人。一方で連敗が続いたとき、選手に向かい「何があろうが萎縮するな。みんなは思いきりやってくれ。どうすれば勝てるかは、俺が考える」と環境を整える姿に、戦う男を見た。この集団から離れるわけにはいかないと大詰めは遠征にも同行し、9月19日、西武球場でのリーグ優勝に立ち会った。
木村 立川のホテルでビールかけがあって、よーしと。ぼく、ロングヘアだったんです。ワンレンで。それをスポーツ刈りにして。ビールかけのために、何年も伸ばしてきた髪を全部切って、会場に降りるエレベーターに乗り込んだ。
次の階でイチローが乗ってきた。目が合った瞬間、互いに手を握り合った。
木村 そして、ビールかけに行きました。
25年前のスーパースターの手のぬくもり、冷たいビールが熱い泡になった瞬間を、今も忘れない。スタジアムDJも不可欠の戦力となり、勝ち取ったリーグ優勝だった。(敬称略)
○…木村さんは相手チームの奮闘も大事にした。98年7月7日のロッテ戦。チームの17連敗を阻止しようと飛ばしに飛ばしたロッテ黒木が9回裏2死一塁でプリアムに同点弾を浴び、崩れ落ちた。ぼうぜん自失の右腕を「ナイス・ピッチング! ジョニー黒木!」をねぎらった。力を振り絞った投手への敬意を込めたアナウンスだった。相手チームの選手に「木村さんに名前を呼んでもらうのが楽しみでした」とあいさつされたことも。「うれしいことです」と懐かしんだ。
◆木村芳生(きむら・よしお) 1962年(昭37)11月5日、香川県生まれ。京都の人気ディスコを拠点にDJ活動を行い、91年から00年までオリックス・ブルーウェーブで日本球界初のスタジアムDJを務める。その後はサッカーJ1G大阪のスタジアムDJを務めた。06年に映像制作会社「レオナルズ」を設立し、DeNAなどの映像制作に携わる。また「Thermal Camera JAPAN」の代表取締役社長も兼務し、感染症やクラスター対策などのサーマルカメラを手がける。
<取材後記>
現在の木村さんは、映像制作会社「レオナルズ」と「Thermal Camera JAPAN」の代表取締役社長も兼務し、感染症、クラスター対策などのサーマルカメラを手がける。球界から離れたあと、オリックス時代のスタジアムDJとしての活躍を「フロックだろ」という声を耳にした。「もう1回、プロ野球で、全く違うところのエンターテインメントで1番を取ってやろうと思って選んだのが映像でした」と語る。
1日16時間の勉強を2年間頑張れば必ずプロになれる、というのが木村さんの考え。1日16時間、映像の本を読み、映画を見続けて色の使い方、カット割りを勉強して映像制作を身につけた。DeNAファンを夢中にする横浜スタジアムの映像は木村さんの作品だ。
サーマルカメラも、病院での使い勝手や利用者の視点に立って作り上げた。



