<アシックス代表取締役会長CEO 尾山基氏(下)>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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星野氏の後援組織「夢の会」会長だったアシックス代表取締役会長CEOの尾山基氏(69)は、星野氏の組織づくりと自社のそれを重ね合わせて話を続けた。

星野は阪神を率いた03年に西の老舗球団を暗黒時代からV字回復させた。18年ぶりのセ・リーグ優勝。アシックスの尾山は独自の分析をする。

「星野さんは奇跡を起こした。長い間、優勝していなかったし、こちらは勝てると思っていませんでしたからね。わたしは野村さんの“遺産”とうまくミックスしたんだと思います」

三顧の礼を尽くして招聘(しょうへい)した野村克也が3年連続最下位に低迷した。後任に就いて再建を託されたのが、野村と同じ外様の星野だった。

「経営者にもありがちなのは前任者を否定して入っていくことなんです。でも星野さんは野村さんのチーム作りを受けて、そこにいろんなものを足していったんだと思いました」

阪神1年目の02年は4位低迷。するとそのオフ、26人に及ぶ選手、スタッフの入れ替えを断行した。“星野流”の体質改善が翌03年のリーグ優勝の結果をもたらしたのだ。

尾山は「経営的にみるとすごいことですよ」という。そして、1977年に伝説の創業者・鬼塚喜八郎がオニツカ株式会社と、スポーツウエアが中心の株式会社ジィティオ、ニットウエアを手掛けたジェレンク株式会社の「3社合併」に踏み切った例を挙げた。

「鬼塚さんは旧3社の役員全員を平にして、新たに実力で昇進できるようにした。会社をうまく変えていって、組織を活性化していった。星野さんの入れ替えも失敗すれば非難されただろうし、自信がなければできなかったでしょうね」

日本代表監督だった08年北京五輪でメダルなしに終わった。日本野球の惨敗は批判を浴びた。現地に赴いて星野ジャパンを視察した尾山は「体調が悪かったみたいで負けてしまいましたね」と振り返った。

90年代のアシックスはバブル崩壊後の景気後退で赤字を計上していた。そのような状況にありながらも、当時の尾山はウオーキング事業の責任者として同事業を収益の柱に育てた。その後、欧州部門のトップとして現地に赴任後、赤字に苦しんでいた同部門のさまざまな改革を強力に推進し、黒字化を達成するとともに成長軌道に乗せた。02年には「オニツカタイガー」をファッションブランドとして復活させている。

「大きな壁を乗り越えてこなければリーダーは務まらないと思ってます。難易度の高い大学を卒業し、MBAを取得し、博士号を取ったからといって、いい経営者になれるかと言ったらそうではない。大事なことは経験を積むことでしょうね。失敗経験が成功戦略につながるんですよ」

北京で日の丸を背負って敗れた星野は、楽天で球団初のリーグ優勝、日本一で再び男になった。殿堂入りを祝う会では「子供たちに野球のできる環境をつくりたい」と夢を語っていた。

アシックスは「侍ジャパン」のダイヤモンドパートナーになっている。トップの尾山は「一般論でいうと少子化など厳しい面はありますが、これからの子供は米国のように複数スポーツをやるべきかもしれませんね」と将来を見据える。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆尾山基(おやま・もとい)1951年(昭26)2月2日、石川県生まれ。69歳。74年に大阪市立大学商学部卒業後、日商岩井を経て、82年アシックス入社。アシックスヨーロッパB.V.代表取締役社長、取締役マーケティング統括部長などを経て、08年代表取締役社長、17年代表取締役会長兼社長CEO、18年より現職。

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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