<明大野球部の同期 斉藤実喜雄>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

    ◇    ◇    ◇  

星野にとって明大で同じ釜の飯を食った仲間の存在は特別だった。団塊の世代で高度成長期を生き抜いた男たちは、同級生で「二十歳の会」を結成。一塁手の斉藤実喜雄は初めて星野と会った日を覚えていた。

「あれが星野かと思ったのは、当時の運動部はほとんど農学部で、生田キャンパスに試験を受けに行ったときです。一番後ろに態度のでかいやつがいた。それが星野でした。2人とも不合格で政経学部に入って4年まで一緒のクラスでした」

北海高の斉藤は1964年(昭39)、3度目の出場になった夏の甲子園大会の富山商戦で本塁打を記録。東京・調布のつつじケ丘にあった明大の合宿所に入る新人は数人で、星野と斉藤は入寮を許された。厳しい監督哲学は監督の島岡吉郎の教えに影響を受けた。

「高田(繁)さんが4年だから、我々は3年だったと思いますが、試合に負けた夜中にベルが鳴って集合がかかった。グラウンドに出て各ポジションに座れと。捕手のところで御大(島岡)も正座するから従わざるを得ない。グラウンドの神様、申し訳ありませんと言って座り続けました」

最も印象に残っているのは68年4月27日、春のリーグ戦第3週初日の慶大戦。5回表無死満塁。慶応の9番田中を投ゴロに打ち取った星野は捕手に送球し、併殺狙いで一塁転送。田中が一塁にフックスライディングし、足をとられて転倒した斉藤がファーストミットで殴りつけた。怒り狂った星野が田中をショートの方向まで追い回した。

「僕が殴った瞬間、星野はもうそこにいましたから。走者がインコースに入って足を上げてスライディングしてくるなんてあり得ないからカッとしたんでしょう。星野は『バカヤロー』とかなんとか叫びながら田中を追い掛けた」

試合は5分間中断し、明大は1-2で敗戦。島岡は「いい試合だったが負けては仕方がないよ。もめたゲームはうちの選手がいけなかった」と語った。

「本来はタイムがかかってないから二塁走者は三塁を回ってホームに行っていいのに、あぜんとして棒立ちです。だれかが『走れ、走れ』といって審判が気付いてタイムをかけた。エースでキャプテンですね。熱くなって、すぐ行動するのが熱血漢の星野なんですよ」

島岡は教え子の2人を責めなかった。星野が正されたのは合宿所での態度だ。

「明治ではトイレ掃除は4年生がやるんです。星野がそれをサボって、後輩にやらせたのが御大の耳に入ったんでしょうね。たまたま仕上がりが良くなかった。それで『今日の掃除当番はだれだ?』『私です』となった。すると御大が星野にこうやってやるんだと、手で便器を洗うところを見せたんです」

監督、リーダーの本気さが選手に伝わって動く。星野は「人間島岡」に教育の原点をたたき込まれた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

連載「監督」まとめはこちら>>