<楽天営業部長 松原健太郎氏>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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楽天を球団初のリーグ優勝、日本一に導いた星野氏の人心掌握術を間近で見てきたのは、楽天・松原健太郎氏(42=営業本部営業第3部部長)だ。余命を知らされた最後のマネジャーは、約3年間仕えた“星野の考え”をメモに残していた。

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松原は星野が亡くなるまで、球団に関する日程を調整し、身辺を支えた。個人事務所の『オフィス1001』と情報共有し、1枚のスケジュール表の中で動いた星野のすべてを知った男だ。

「ぼくの親戚も膵臓(すいぞう)がんで、ごそっと痩せて亡くなっていたので、正直、やばいなと思いました。本人も腹の中ではそう思ったと思います。でもあらゆる医療の最新技術で、なんとかなるんじゃないかと…。ぼくが(星野氏の関係者から)聞いたのは『半年かも』『明日かも』『いつどうなるかわからない』という説明でした」

松原への取材はここでいったん止まった。しばらく沈黙が続いた後で「しゃべっていいですか」と切り出された。

「昔話をすることが多くなりましたね。(故郷)倉敷の小学校の同級生に会いたい、小さい頃に行ったあそこに行ってみたいとか。今までたくさんやってきたから死んでもいいというんじゃなくて、やっぱり長く生きたい気持ちがすごく強かったと思います」

楽天の秋季キャンプでは松原の運転で岡山県倉敷市の水島地区を巡回した。「この用水路はもっと水があって泳いだんだけどな」。少年時代をなつかしんだ。

シーズン終了が近くなると、星野のもとには引きも切らず電話が入った。

「各球団のコーチ、選手から、引退、退団などの連絡が頻繁にかかってくるのですが、これがものすごい数なんです。次の就職先のお願いには『わかった』とか、『期待せず待っとけ』と言ってましたね。でも突き放しはしない。来る人は絶対突き放さない。自分を慕って、ちゃんと対応する人は絶対ほったらかしにしないし、頼られたら絶対やる。すごいと思いました」

球団広報も務めた松原は「どんなに怪しい記事を書かれても、そういう媒体の記者からも好かれるってなかなかいませんよね」と少しだけ笑った。マスコミは敵にあらずと、人対人で付き合った星野の処し方だ。

都内のかかりつけの病院とマンションの往復は、人と顔を合わせない裏動線を使った。気力を振り絞る星野につく松原も、身を削る思いだったに違いない。

「『お前は湿布を貼るのだけはうまいな。お前の湿布はしわができない』と言われました。うれしかったです。怖いお父さんみたいな感じでした」

松原は約3年間仕えたことをメモに残していた。チーム編成をはじめ、慶弔供花の送り先、星野がもらす格言的な言葉までつづられた。コーチ人事は「7対3の割合で、7が球団OB、3がOB以外が理想的」と指針を示すなど、A4ノート2冊に“星野の考え”がびっしりと書き込まれた。

メモの日付は17年12月21日とある。星野が都内で知り合い4人とそば屋で会食した翌日、松原は羽田空港で見送っている。

「最後まで(静養先の)ハワイに行きたいなと言ってましたね。ぎりぎりまで行く予定でしたから、残念だな、残念だなって。たぶんできる治療は全部やったと思います。『また来年な…』って言われたような気がします」

14日後、急逝。すぐ駆けつけた松原は、徒歩で自宅周辺をパトロールした。「マスコミにかぎつかれてないかと思ったんです」。最後まで筋を通し、忠義を尽くした。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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