日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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阪急で西本幸雄、上田利治が監督を務めた黄金期を支えた1人が、福本豊だった。「世界の盗塁王」。通算2543安打が示すように足だけではない。1番福本が出塁し、加藤秀司、長池徳二、マルカーノのクリーンアップが迎え入れた。

福本をアシストしたのは2番の匠(たくみ)、大熊忠義だ。浪商(現大体大浪商)、近大から阪急に入団。高校時代は1つ下の後輩に“怪物”の異名をとった尾崎行雄がいた。阪急一筋18年で、9度の優勝。高校、大学、プロと「生涯2番」の男だった。

「福本が出てきたときのことは、よく覚えてます。ぼくはセンターを守っていましたが、これでレフトか補欠やなと思いました。福本とヨーイドンで走ったら遊ばれてましたわ。打撃では西本さんから『引っ張れ』と言われていましたね」

キャンプでは、ひたすらファウルを打つ練習を繰り返した。ヒット狙いでなく、とにかくバットに当てながら主に右方向にファウルを運ぶ。大熊がファウルを打つプロだったのは“西本遺産”だ。その成否も福本の盗塁数を左右した。

「キャンプはずっとバントの練習だけして終わりましたね。塁に出た福本を走らせるためで、スタートが悪かったらファウル、良ければ当てたらあかんから、空振りするんです。もめることもありましたよ。どこまでいっても行きよるやつでしたからね。『おれはずっとお前のスタートを見とるぞ』と言って、分かってもらいました。西本さんからは『芯に当てようとするから難しいんや』と言われましたね」

大熊は「その代わり大きいのが飛ばなくなった。もともと飛ばんけどね」と苦笑する。名将西本の下で育った“職人”は、上田が指揮を執ることになってより磨きがかかった。

「福本が出塁すると、いつも2番のぼくと目で合図しながらエンドランを掛けました。ぼくがフライを打ち上げたりしたら、上田さんから『お前ら勝手にやるな!』と叱られたこともあった。でも監督も一、三塁でよくエンドランのサインを出した。満塁の場面でもあったから、さすがにこっちはサイン間違いかなと思ったくらいです。1点を取る上田さんの野球です。西本さんは闘将、上田さんは知将でしょう。共通してるのは頑固もんいうことですね」

1976年(昭51)の巨人との日本シリーズは、3連勝した後で3連敗を喫した。巨人の逆王手で迎えた第7戦。敵地の後楽園は異様な雰囲気に包まれた。上田が先発に指名したのは足立光宏だ。18年目のベテランに託した。いや、選択肢は残されていなかったというべきだろうか…。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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