日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

    ◇    ◇    ◇

阪急ブレーブスには名投手が育つ土壌があった。米田哲也、梶本隆夫の「ヨネカジ」から、足立光宏、山田久志…。一流投手の系譜が名門の伝統を感じさせる。

1976年(昭51)11月2日、巨人との日本シリーズ第7戦にマウンドに上がったのは足立だった。3連勝し、3連敗。逆王手をかけられたが、見事な完投勝利で日本一に輝いた。

通算9勝(5敗)が示すように、足立は“シリーズ男”だ。「巨人には小結が横綱に向かっていくようなもの」と評する足立は、取材のなかで後輩の山田を熱く語っている。

「巨人は四つに組んだら負ける。あの顔ぶれだもん。でも山田は四つに組んでく。うまいことやればいいのに、わかっていても四つに組む、山田とはそういう男だ」

足立が登板する前日のシリーズ第6戦は、7-0からひっくり返されていた。

「第6戦は5回ぐらいからグラブとスパイクをバッグになおし、運動靴に履き替えた。それが、おい、おいと、こりゃまずいと急いでブルペンにいった。ひょっとして、明日いかなあかんかなと思ったからです」

それまでの6試合は、この年26勝、勝率7割8分8厘の山田、2年連続2ケタ勝利の山口高志が先発、中継ぎで交互に登板し、疲弊していた。今回の取材で足立は「だれからも先発を言われていない」と信じられない事実を打ち明けた。

「だれからも『明日、いくぞ』と言われなかった。監督からも、梶本さん、植村さんの投手コーチからも…。先発という話はだれからもなかった。山田と山口を使っておらんかっただけのことじゃないかな。上田さんが、足立という投手を信頼してたかどうかわからなかった」

足立は複雑だった心境を正直にもらした。だが日本一決戦では本領を発揮する。6回に1点を勝ち越されてなお1死満塁のピンチ。淡口憲治をシンカーで投ゴロ併殺に仕留めた。

「68年の春季キャンプで右肩を壊してからチョロチョロとシンカーを投げてきた。3、4年かかったかな。前の試合が試合だったのでね。シリーズは精神力が大きい」

7回に森本潔が逆転2ラン、8回福本がダメ押しソロ。足立は両手を広げて捕手の中沢伸二をマウンドで待ち構えた。上田阪急が西本幸雄が日本シリーズで5度とも勝てなかった巨人を負かした瞬間だ。

「うれしかった。中沢とは抱き合った。でも西本さんのときにやりたかったね。西本さんに電話で『おかげで勝ちました』と報告した」

翌77年も巨人を4勝1敗で退けた。3年連続日本一。上田は阪急の黄金時代を築いた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

連載「監督」まとめはこちら>>