日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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阪急ブレーブスのエース山田久志は、西本幸雄、上田利治のもとで投げた。「オヤジ」と慕った西本に育てられた自負もあって、上田が監督に就いた当初はなじめなかった。

「上田さんが監督になって野球が変わったというか、なかなかついていきにくかった。西本さんは、体を鍛え、よく打って、よく投げてと、細かい野球もやったが、力勝ちをしたかったんだろう。上田さんは非常に神経を使う野球をした。最初、西本門下生といわれた選手は戸惑ったんじゃないかな」

勝負に徹する気力と情熱は変わらないが、野球観は異なった。山田は捕手の中沢伸二が叱られる姿を目の当たりにしてきた。

「特にバッテリーには厳しかった。配球にうるさい、うるさい。中沢さんはもうレギュラーで任せても良さそうなものを、怒られ役でかわいそうなくらいだった。自分の思うようにいかないと怒鳴り散らしたのは若手にも同じだ。なんだかんだ言われなかったのはわたしぐらいのもんじゃないかな」

勝つことに情熱を注いだが、あまりに厳しかったので、若手が萎縮しだして「もうちょっとのびのびやらせてあげてください」と陳情にいったほどだ。

「日本シリーズの猛抗議で見せたように、人の言うことを聞かない。それにカネやん(金田正一氏)とはいつもケンカした。お互いがけしかけた。野村(克也)さんへのライバル意識もすごかった。野村さんも細かい野球をしたから、もっと上をと思ったんだろう」

監督1年目の74年プレーオフで3連敗を喫した際のロッテ監督が金田正一。同じ捕手で、南海、ヤクルトなどで監督だった野村克也にライバル意識をむき出しにした。

阪急は米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、石井茂雄ら名投手を輩出し、その系譜を継承したのが山田だ。西本に鍛えられ、上田が監督を引き継いだ後からも勝ちまくった。

12年連続開幕投手(75年~86年)を務め、特に日本シリーズで初めて巨人に勝った76年は26勝を記録。数々のタイトルを手中に収め、西本、上田が築いた第1、第2次黄金時代の屋台骨だった。

上田は日本一になった76年オフ、中日と大トレードを成立させる。中日から主力打者の島谷金二、20勝投手の稲葉光雄に、大隅正人を獲得し、その年日本シリーズで活躍した森本潔と戸田善紀ら4選手を放出した。

「上田流のチームマネジメントだ。日本一になった後のトレードには驚いたし、外国人を含めて、チームのウイークポイントを補強する手は早かった。福本、加藤、山田らが育ってたし、そこに長池さん、大熊さんら先輩がいて負けるわけがなかった」

山口高志、佐藤義則、山沖之彦、星野伸之ら投手が続いて育った。阪急、オリックス、日本ハムで計20シーズン指揮を執った。実績のない捕手が、知将に上り詰めた。山田は「上田さんは名将としてもっと持ち上げられるべきだと思う」と仰いだ。【編集委員・寺尾博和】(敬称略=おわり)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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