日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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広岡達朗と川上哲治の確執は1954年(昭29)4月27日、西京極球場での洋松(現DeNA)戦で決定的になった。水原茂が率いる巨人は、0-4から広岡のソロ本塁打などで同点に追いつき逆転した後、9回裏を抑えるだけになった。

その回2死から、広岡が2つのエラーを犯し、1点を奪われた揚げ句、2死満塁から青田昇の逆転本塁打で敗れた。一塁手の川上に悪送球した広岡が帰りのバスに向かう途中で新聞記者に吐いた言葉が火をつけた。

「あんな球を捕ってもらえないと野球なんかできませんよ!」

新人が矛先を向けた相手は、雲の上の人、4番川上である。チームは凍り付き、この問題発言を引き金に2人は冷たい関係になった。当時のプロ野球が殺気立っていたのは、ベンチの様子からも伝わってくる。

若手の広岡が守備でもたつくと、エース別所毅彦は「水さん(水原監督)、あんなショートじゃあ、うちは勝てんよ」と平然と声をぶつけた。広岡はチーム内で孤立していった。

また、川上が監督だった64年8月6日国鉄戦(神宮)の2点を追う7回表、1死三塁で広岡が打席に立った後、三塁走者の長嶋茂雄がホームスチールを試みてアウトになった。

「わたしは『おれのバッティングが信用できないのか』と思って、次の球に空振り三振して、地面にバットをたたきつけ、そのままロッカールームに引っ込んだ。あとで藤田(元司)のガンちゃんから『あれは良くないよ』と言われました」

同じようなプレーは62年にもあった。ベンチのサインか、長嶋の独断かはさておき、不信感が増したことが態度に出た。そしてチーム内で浮いた感が強くなった64年オフ、広岡のトレード話につながった。

当時を知る関係者は「広岡放出やむなしという判断に至った」という。マスコミは書き立て、紆余(うよ)曲折はあったが、最後まで「巨人広岡」にこだわったのも確かだ。その2年後の66年に現役を引退する。

その後、自費で米大リーグのスプリングトレーニングを勉強で見て回った67年にも仕打ちは続く。フロリダ州ベロビーチのドジャース・キャンプ地に巨人を訪問すると、急きょチーム練習が取りやめになった。広岡にサインプレーを見破られるかもしれないというのが理由だった。

「川上さんの指示でなかったのは後で分かりました。川上さんとはいろいろあったが、選手としてはもちろん、勝負師、指導者としても優れた方だったと思います。でも川上さんを追い抜くようなチームを作りたいと意を強くしたのは事実でした」

「巨人軍に愛はあるのですか?」とただすと、本人から「当たり前です」という答えが返ってきた。その後の川上との関係は後述するが、広島からコーチを要請され、指導者の道を歩んでいく。声を掛けたのは、監督の根本陸夫だ。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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