日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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巨人を追われ、広島でコーチを経験した広岡は、ヤクルトで初めて監督の座に就いた。1976年(昭51)の途中、荒川博から代わったシーズンは5位、翌77年は2位だった。

78年はアリゾナ州ユマ市でキャンプを張った。オーナーの松園尚巳からは「メジャーのキャンプ地に行けば強くなるのか。勝たなければどうするつもりだ?」と迫られた。

「ヤクルトの選手は巨人にコンプレックスを持っていました。力ではありません。苦手意識ですと。わたしは『勝てなければ、わたしが責任をとって辞めます』といって海外キャンプが決まったのです」

50年の球団創設(当時国鉄)から、Aクラス入りはわずか2度だった。正捕手の大矢明彦(元横浜監督)は「入団したときは別所(毅彦)さんが監督、広岡さんの前が荒川さん、その前が三原(脩)さんでしたが、まったくの正反対でした」という。

「とにかくメシを食わないと体が大きくならないからという時代で、三原さんは少しアルコールを入れて食事をしたほうが進むからという考えでした。それが広岡監督になって、180度変わった感じでしたね」(大矢氏)

練習中の私語は厳禁、マージャン、ゴルフ、アルコール、タバコ、炭酸飲料も禁じ、門限破りには罰金を科した。ユマキャンプの昼食はスープとクラッカーだけで、食生活も厳しくしつけた。

宿舎だったモーテルでは、選手が朝の体操に出ている間に、各部屋のクーラーボックスの中身を点検させた。練習から帰ってくると冷蔵庫の中に詰まっていたビールは消えていた。

大矢は「ぼくは飲まなかったのでよかったが、それまで飲めといわれていた人が飲んではダメということになったんで、かなり反発はあったと思いますね」と話した。

77年、“小さな大打者”といわれた若松勉をレフトからセンターへのコンバートに踏み切った。広岡は故障していた期間にビールをあおっていた中心選手の若松を激しくとがめた。

「若松には『お前なんかよそのチームにいったら補欠じゃ!』ときつく言いました。でも彼のえらいところは、監督に2度とあんなことを言わせないと思って必死になったことです」

指揮官から叱咤(しった)激励を受けた若松は2度目の首位打者と、センターに回ったその年から2年連続でダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を獲得。78年の初優勝、日本一に大きく貢献した。

広岡は「管理といわれるのは好まない」というが、意識を変えるためにチームを縛った。私生活にも手を突っ込まれた選手たちは反発したが、妥協するつもりはさらさらなかった。【寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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