日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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1978年(昭53)、広岡が率いたヤクルトは前半戦を首位で折り返したが、後半は巨人に追い抜かれた。8月下旬には4・5ゲーム差をつけられる。

「ヤクルトの選手はプロとしての生き方がわかっていなかった。戦力を再生するしかないと、年中無休に近い練習をさせた。追い込んでいって限界に近くなると『どうせビリのチームや。潔くパンクせい!』と言いましたよ」

その前年、一塁から外野に転向した杉浦亨は、右太もも肉離れでユマ・キャンプ不参加だった。1軍合流後の夏場に自打球で右足親指のツメがはがれた。「監督からは『休むなら休んでいい。その代わりゲームには出れんよ』と言われました」。

そこで新しいスパイクの右足親指の部分だけを切って穴を開けた。患部は腫れて痛んだが、包帯をぐるぐる巻いて固定し、スパイクから親指だけが顔をだした状態でプレーした。「試合に出て勝ちたかった」。

9月6日の大洋戦(神宮)に勝って単独首位に立った。19日の中日とのダブルヘッダー2戦目(静岡)は船田和英がサヨナラ本塁打、20日の神宮に戻った同カードでも杉浦が逆転サヨナラ本塁打を放った。

2本の劇的アーチをお見舞いされたのは、“燃える男”星野仙一。杉浦は不思議な力を感じていた。

「なんか勝ちだすと見えないものまで見えるんですね。星野さんはグラブじゃなく腰の後ろでくねくねとボールを持つタイプでした。右手がスッとグラブに入る瞬間、ストレートだと分かったんです」

21日の中日戦も、杉浦の決勝犠飛で3戦連続のサヨナラ勝利で神がかった。チームは優勝へのマジック「9」でカウントダウンに突入。松岡は倉敷商で1つ先輩にあたる星野から言葉を掛けられた。

「『おいマツ、もうおれはお前んとこ(ヤクルト戦)には投げんからな』と言われました。それぐらいチームは勢いに乗ったし、神宮はすごい盛り上がりになってました」

9月のチーム14勝(6敗)のうち12勝が逆転勝ちで優勝になだれ込んだ。10月4日の中日戦(神宮)で松岡が完封し、ついに球団創立29年目にして初優勝を飾った。

バックスクリーンに5枚の垂れ幕が下がった。「セ・リーグの繁栄を今日まで築いてくれた伝統の巨人球団有難う」「熱心ななにわ気質の声援に大きな刺激をうけました 阪神球団どうも有難う」など他5球団に向けたシャレの利いたメッセージだった。

監督に締め付けられ、反発した選手が1つにまとまったことについて広岡に問うてみた。

「人間というのは正しいことをやり続ければ新しい発見をするものです。勝つために選手が何をしたらいいかを自覚し、一丸になったからだ。選手がこれでもかと歯を食いしばってくれたおかげですよ」

自らが育った盟主巨人を抜き返し、監督として頂点に立ったのは、広岡達朗という男の本懐だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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