日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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広岡は今も朝起きると、水浴びをする。「体の毛穴がきゅっと締まる。頭から水をじゃーっとかけて、水につかります」。それが毎日のルーティンだという。

「人間というのは、生きている動物、万物の霊長なんです。慣れれば平気ですよ。冷たいなんていったら魚に笑われます」

新型コロナウイルスのワクチン接種も「人は自然の法則に逆らうとバチが当たる」と今のところ打つ予定はない。生き方を極め、まるで悟りの世界にいるかのようだ。

巨人に育ち、広島で学び、ヤクルトで花を咲かせた。近鉄で監督だった西本幸雄から声が掛かって、阪神球団社長の小津正次郎のオファーを受けたが、実現に至らなかった。

その後、西武監督の根本陸夫から誘われた。長嶋茂雄、上田利治に断られた後の受諾。西武でも3度のリーグ優勝、2度の日本一に導いて黄金期を築いた。

「人は良き師匠に巡り合うかどうかが、1つの分かれ道です。そして教わるほうの向上心を、いかに引き出せるかどうか。監督、コーチが正しい鍛錬をすることができれば選手は伸びますよ」

巨人の名遊撃手として、川上哲治が監督だった不滅の9連覇にもかかわった。しかし、その川上に反発してしこりが残った。2人の間に“溝”ができたのは、プロ野球界では知られた話だ。

広岡はたもとを分かった川上を超えるチーム作りを決意する。ただ指導者になった後の教えをたどっていくと、チームを束ねるために実践した“川上流”とダブっている気もした。

ヤクルト監督の広岡は、雨天中止になった遠征先の静岡であえて土砂降りの中で打撃練習を強いた。1961年(昭36)の川上巨人は、南海との日本シリーズ第4戦が2日連続中止になると、多摩川に野手全員を集合させて異例といえる雨中の練習を課した。

ヤクルト杉浦享は、初球をファウルしただけで監督の荒川博に代打を出されると、バットをたたきつけて引っ込んだ。コーチの立場だった広岡は、現役時代に打席で三塁走者長嶋茂雄が本盗を試みてアウトになった経験を引き合いに出し、杉浦をなだめるのだった。

「おれも(川上監督に)信用されてないのかと思って頭にきてバットをたたきつけたから、気持ちはよぉわかる。自力でまた、はい上がってこい」

川上は「禅」の道を究めた「組織野球」、広岡は「氣」に活路を求めた「管理野球」だった。本質は異なるが、広岡野球の“源”は巨人時代に培われたといえるだろう。

広島でのコーチ生活を終えた後、広岡はひそかに川上の自宅を訪れている。巨人時代の非礼をわびたという。

「今思えば、わたしは先輩たちの厳しさによって鍛えられました。川上さんは巨人は強いんだという信念の塊のような人。勝利への執念と集中力は勉強になりました」

原理に基づいて正しい訓練をやれば、人は育つという。そこに名将になった広岡の生きがいがあった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、おわり)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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