深紅の優勝旗が、初めて沖縄に渡った。興南(沖縄)が、エース左腕島袋洋奨投手(3年)の1失点完投で、98年の横浜(神奈川)以来12年ぶり6校目の春夏連覇を達成した。沖縄県勢の夏の優勝は初。東海大相模(神奈川)打線に9安打を浴びたが、4奪三振で要所を締めて13-1で大勝。甲子園通算三振を130、年間通算三振は史上3位の102とした。打線は東海大相模・一二三慎太投手(3年)に16安打を浴びせて6回KO。19安打で13点を奪い、今春センバツから公式戦22連勝で頂点に立った。

この夏ずっと封印していた笑顔がようやくはじけた。笑顔で両手を上げる島袋のもとに女房役の山川が、内野手が、ベンチから全員が集まる。とうとう、夢をつかんだ。春夏連覇、そして沖縄球児として初めて夏の頂点に立った。「うれしいのひとこと。それしか言葉がありません」。島袋には笑顔しかなかった。

決勝は変化球主体で行くとバッテリーで決めた。1回、1死一、二塁の場面で4番大城卓からツーシームで併殺を取った。「あの場面で併殺を取るために落ちる球を練習してきた。ようやく決勝で出すことができました」。センバツ後は投球の幅を広げるためタテの変化球を磨き、1番大事な場面でその成果を出した。最後は直球勝負で空振り三振を奪い島袋らしい締めくくり。「最後の最後で理想の投球ができた。みんなが点を取ってくれたおかげです」。奪三振数は4だがこの夏1番の投球だった。

甲子園で「史上最強の左腕」となった。通算奪三振数は松坂大輔、田中将大、斎藤佑樹を超え、甲子園11勝目は松坂と並ぶが、先発勝利数としては松坂を超えた。「怪物」と呼ばれた数々の名投手と肩を並べ、沖縄に最初に深紅の優勝旗を持ち帰ったエースとして、その名が刻まれる。そのスタートは昨年センバツ初戦の富山商戦。19三振を奪いながら敗れ「得るものは何もなかった」とうつむいたのが始まりだった。「結果を出して初めて『一生懸命やった』と言えるんだ」。我喜屋優監督(60)の言葉を胸に刻んで黙々と練習をこなした。

父直司さん(49)は幼いころ、プロ野球のキャンプに連れて行ってくれた。右利きの島袋に左利き用のグラブを与えサウスポーに育てたのも父だった。母美由紀さん(47)はセンバツ優勝後、人に囲まれてバス通学もできない息子を学校まで送り迎えしてくれた。両親の深い愛情に包まれエースは全国1番の投手に成長した。「小学生のときから夢はプロ野球選手になると言っています」と直司さん。希望は進学だが、次のステージでもプロへの夢を追い続ける。

沖縄勢が初めて夏の甲子園に出場したのは、まだ米国の統治下だった1958年のことだ。あれから52年。沖縄水産の2度の準優勝を経て、これが3度目の挑戦だった。興南関係者だけでなく、島人(しまんちゅ)の期待を一身に背負った島袋は、プレッシャーをはねのけて悲願を達成した。

自然発生したスタンドのウエーブを驚いたように見つめた。誰よりも長く暑い夏を過ごしたエースが2本目の大旗を沖縄へ持って帰る。

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沖縄代表の甲子園の歩み

◆58年夏 首里が沖縄代表として甲子園初出場。敦賀に0-3で敗れ初戦敗退。パスポート持参で甲子園にやってきた。持ち帰った土は植物検疫のため那覇港沖で捨てられる。

◆60年春 那覇がセンバツ初出場。1-4で北海に敗れ初戦敗退。

◆63年夏 首里が日大山形を4-3で破り甲子園初勝利。

◆68年夏 興南が沖縄代表初の4強入りし「興南旋風」を巻き起こす。

◆75年春 栽弘義監督(故人)率いる豊見城がセンバツ初8強入り。

◆76-78年夏 豊見城が3年連続8強入りした。

◆90年夏 栽監督率いる沖縄水産が県勢初の決勝進出。天理に0-1で惜敗。

◆91年夏 再び栽監督率いる沖縄水産が2年連続決勝進出。大阪桐蔭に8-13で敗れ2年連続準優勝に終わる。エース大野倫(巨人?ダイエー)は右腕を疲労骨折しながら決勝まで6試合を投げきり、悲劇のエースと話題になる。

◆99年春 沖縄尚学がセンバツ初優勝。紫紺の大旗が初めて沖縄へもたらされる。

◆01年春 21世紀枠で出場した宜野座が4強入り。

◆08年春 沖縄尚学が2度目のセンバツ優勝。99年初優勝の時のエース比嘉公也監督(29)がチームを率いて監督としても全国優勝を果たす。

◆10年 興南が沖縄県勢3度目のセンバツ優勝。夏も県勢初優勝し、春夏連覇を達成。