3位が基準のはずだった。中大・島袋洋奨(ようすけ)投手(22)は、未勝利で終わった春季リーグ戦終了直後の6月、社会人チームの強豪、JR東日本の堀井哲也監督(52)と会った。

プロに行かなかった場合、JR東日本を進路先の最有力候補とすることを確認した。その中で、島袋自ら提案をした。「順位の目安をお話しさせてもらいました」。ドラフトで3位以上の指名を受けたらプロへ、それ以下なら世話になる。そう決めた。堀井監督からは「君が野球を続けていく環境は、どういう形でもあるということだよ」と声をかけられた。社会人野球に進むかもしれない。そんな予感もあった。

プロ以外の選択肢が出てきたのは4月のことだった。中大・秋田秀幸監督(59)と進路面談した際、プロだけでなく社会人という道も示された。島袋が振り返る。「(プロ志望届を)出さない決断もありえました。あの時の状態では、下位でも指名されない可能性はありました。本当に迷っていました」。

調子を落とし、プロの評価が下がっていることは本人が最も理解していた。3位という基準は、評価してくれるJR東日本への感謝と同時に、思うように投げられないジレンマと、迷いの中で設けたものだった。

4年前は想像もしない現実だった。興南(沖縄)のエースとして、史上6校目となる甲子園の春夏連覇を成し遂げ、さらなる成長を目指して進学した。「大学を卒業した後は、プロに行くことしか考えていませんでした」。入学直後の1年春には開幕投手に抜てきされ、大学野球生活も順調にスタート。ドラフト1位でプロ入りする姿を、だれしもが想像した。

迷路に入ったのは3年の秋だった。青学大との初戦。思い切り腕を振ると、球は捕手のミットを大きく外れてバックネットを直撃した。「そのときは、そこまで(重大なこと)とは思っていませんでした」。その後も同じことが起きた。

左肘や肩に問題はなかったが、ボールがコントロールできなくなっていった。「原因は分かりませんでした」。それからは、沖縄に帰れば恩師を訪ね、アドバイスをあおいだ。手を尽くし、練習を重ねたが、手応えをつかめないまま4年の秋を迎えた。

9月。プロ志望届の提出期限が近づき、毎日のように自問自答を繰り返した。今、自分は何をすべきか。どういう道を進むのが最適なのだろうか。そんな中で出た答え。それは「プロに行きたい」だった。故郷を離れ、大学に入学した日の思いと同じだった。

「もし、社会人野球に進んでも、その先でプロへ行けるかは分かりません。そもそも、プロに行くために大学に来たんです。親も、(秋田)監督も『どんな形でも応援する』と言ってくれました」

プロに行く。プロ野球で勝負する。この決断の前に、もはやドラフト順位は関係なかった。志望届提出後の10月16日には約1年ぶりの白星を飾った。「吹っ切れたのかもしれません」。もう、迷いはなかった。

誕生日前日の10月23日、ドラフト会議でソフトバンクから5位で指名された。記者会見場に入ると、野球を始めたころからの幼なじみで、学生コーチの慶田城開(4年=興南)が号泣しているのが見えた。島袋の目も赤くなっていた。

会見を終えると、すぐに堀井監督に電話をした。3位より下だったが、プロに行く決断を報告した。開口一番に「おー ! よかったな、頑張れよ」と言われ、祝福してもらえたことが心底うれしかった。

ソフトバンクでの背番号は「39」になった。「サンキューで感謝の背番号になりました。ここまでこられたことを、本当にみんなに感謝しています。恩返しをしなきゃなって思います」。沖縄の太陽のように輝く、島人(しまんちゅ)の笑顔がそこにあった。【和田美保】