自宅での契約発表は、盛大なホームパーティーになだれ込む日本では例のない形式だった。前代未聞の調印の前日、グリーンウェル本人はアポなしで阪神渉外団の前に現れた。契約書を携えて日本から渡った常務取締役の野崎勝義と渉外担当、山縣修作の泊まるホテルにマイカーのピックアップトラックを横付けした。

「代理人と打ち合わせをするだけの予定でしたので驚きました。初対面でしたが、スポーツマンで紳士的な印象でした」

当時、そう話していた野崎は、5カ月後に電撃引退を発表するまで「人格的には非常に好感の持てる選手だった。少なくとも日本人をだまそうとか、ずるをしようという悪意は感じたことがない」と述懐する。一方で、グリーンウェルに寄り添う代理人ジョー・スロバへの警戒心が解けることはなかった。

グリーンウェルに匹敵する注目度で95年にダイエーに入団したのが、メジャー220本塁打の外野手ケビン・ミッチェルだ。5月中旬に右膝故障を理由に無断で帰国。年俸支払いを巡り球団と争ったのが、代理人のジョー・スロバだった。阪神と同様にグリーンウェルを獲得リストに挙げていた近鉄は、この代理人の存在から手を引いたとされる。

阪神と大筋で合意していた契約は当時、球団史上最高の300万ドル、約3億3000万円の2年契約と伝えられた。正確には200万ドルの3年契約だったという。その年、レッドソックスとの最終契約が370万ドルだった大物は、いずれにしても廉価で日本行きを決断した。「お金のために野球をやるのではない」。決意に一点の曇りもないように、パーティーでかいがいしくホスト役を務めた。

華やかな1日、自宅の一室では代理人と阪神渉外団が契約の細部を詰めていた。スロバは神戸市内のマンションで「3ベッドルーム」の部屋を要望。「本人と家族、そして日本に来るゲストが利用するために」と日本での活躍を想定していた。希望にかなう物件がなく、阪神側は2ベッドルームの2部屋をつなげる工事を強いられる。

さらに付帯条項で加わったのが「途中帰国」の一文だった。2月1日のキャンプインは日本の慣例に従い、キャンプ地の高知・安芸で練習に参加する。だが2月上旬には1度、米国に戻ることを許可してほしい。ファーストクラスの搭乗券を阪神側が用意することで折り合ったこのキャンプ離脱条項が、日米をまたいだ大騒動に発展していく。【町田達彦】(敬称略、つづく)

◆ケビン・ミッチェル 81年ドラフト外でメッツ入りし、84年にメジャー昇格。ジャイアンツ、マリナーズなどに移籍。89年に47本塁打、125打点の2冠でナ・リーグMVP。メジャー通算10年で220本塁打、689打点。推定年俸4億円で入団した95年ダイエーでは開幕直前の3月25日に来日も開幕西武戦の第1打席で満塁弾。5月に右膝痛悪化を理由に遠征を外れ、年俸の支払いなどを巡り球団とトラブル。無断で帰国し、7月に再来日するも右膝痛の再発を訴えてすぐに再帰国してしまった。日本では37試合で8本塁打、28打点。