大阪に戻ったグリーンウェルは阪大病院(吹田市)で患部をギプス固定されると、球団社長の三好一彦に面会を申し入れた。全治4週間の診断に、潔く、ユニホームを脱ぐことを決めたためだった。米国で治療に専念すれば、シーズン後半での復帰は十分に可能な時期。お告げを聞いたミスターレッドソックスの結論は阪神だけでなく、野球界から退くことだった。

「十分に野球をやった。これからは家族と時間を過ごしたい」。決意とともに、グリーンウェルは面会で年俸の約4割を返金したいと願い出た。200万ドル、当時のレートで約2億4000万円から9600万円ほどを返上した。三好は「気持ちをくみたい」と契約解除は合意に達した。

2月の一時離脱時や前年12月の契約時に前面に立った代理人ジョー・スロバは介さなかった。相談すれば引退はおろか、退団すらも許されなかっただろう。選手からでは異例の返金申請が、5月の引退を阪神に認めさせる説得材料だった。引退会見でも「金のために野球をしているのではない。名誉や誇りのためだ」とプライドをにじませた。

レッドソックスでバリバリの主力のころ。日米野球などで日本には3度、来るチャンスがあった。故障や子どもの誕生などですべて逃し、33歳になって日本の伝統球団からのオファーに発起した。成功を楽しみにしていた日本滞在は2月まで15日間、シーズンで16日間。わずか1カ月ばかりだった。「2人の子どもは野球が好きなので一緒に楽しみたい。自分はもういい。コーチや監督などもやりたくない」。縁が薄かった日本の地で、タテジマを着て折れてしまったのは、右足の骨だけではなかった。

96年12月19日。フロリダ州の地元新聞はスポーツ面のトップで、阪神と契約したグリーンウェルを取り上げた。その中に「G砲は1カ月で日本を離れる」という不気味な「お告げ」めいた見出しがあったことはあまり知られていない。

日本留学の経験がある野球通のコラムで「タイガースは日本で一番ファンが熱狂的。嫌われれば1カ月で日本を離れるが、認められれば神のように愛される」と指摘されていた。神になれたのは3試合だけ。すぐに神から断を下されたグリーンウェルが、愛してやまなかった長男ボーは07年ドラフトでインディアンスから6巡目で指名された。父と同じ左打ちの外野手。26歳の今季もレッドソックス傘下のマイナーリーグでプレーしていた。【町田達彦】(敬称略、おわり)

◆97年の阪神 2年連続最下位を受け吉田義男監督が3度目の就任。4月は6連敗から立て直し、グリーンウェル合流まで11勝12敗。6月8日には31勝29敗で2位に浮上したが、7月に6連敗、8月に5連敗が2度など失速し、最終的に62勝73敗1分けで5位。規定打席到達は和田、平塚、久慈、新庄、桧山と5人。桧山の23本塁打がチームトップだった。ちなみに吉田監督はグリーンウェルの引退に「まるで竜巻のように去っていきましたな」のコメントを残した。