1992年は、強いタイガースがよみがえったシーズンだった。幻のサヨナラアーチでけりをつけられず、試合時間6時間26分の末延長15回引き分けた9月11日のヤクルト戦(甲子園)は、猛虎進撃の象徴でもあった。85年の日本一後、87、88、90、91年と最下位に沈んだ阪神が、この年は巨人と並ぶ2位。躍進の芽は前年から生まれていた。

当時、監督としてチームを率いていたのは中村勝広。現在は阪神GMを務める中村は「実は前年から兆しがあった」と振り返った。

中村 91年も最下位でしたが、シーズン途中から中込、湯舟、葛西、猪俣らドラフト1位組が力を見せ始め、先発投手がそろい始めていた。これは来年は戦えるのでは、と感じた。

89年5位を最後に退任した村山実に代わり、中村は40歳で阪神監督に就任。低迷が続くチームの再建を託されたが、若い指揮官の意欲とは裏腹に、就任から90、91年と2年連続最下位に終わった。

中村 自分も来年(92年)は3年目。監督をやめるにしても、遺産というか、次の監督に何かを残してバトンタッチしたいと思っていた。

その「何か」が、力を見せ始めた先発投手陣だった。さらに阪神の歴史を変えるニュースがあった。91年11月25日、球団社長の三好一彦は、本塁打量産を目的に47年に設置された甲子園球場のラッキーゾーン撤去を正式に発表。高校野球の春夏全国大会を甲子園で開催する日本高野連の「基礎を学ぶ高校の段階で、ホームランが量産されるのは歓迎すべきことではない。広いグラウンドで、連係プレーなど基本を身につけることが大切」(田名部和裕事務局長=当時)という意向もくんでいた。12月5日の撤去工事で、本塁から両翼までの距離は91メートルから96メートルに延びた。

中村 これはタイガースにとって追い風だと思った。投手中心に、守り、機動力を生かした野球が軸になると感じた。

中村の予感は現実になった。92年の甲子園初戦となった4月11日中日戦で、猪俣隆が4―0の完封勝利。同15日大洋戦では、中込伸が7―0の完封で続いた。6月14日広島戦では、甲子園の5万大観衆の前で、湯舟敏郎が無安打無得点試合を達成。チームでは73年江夏豊以来の快挙を成し遂げた。この年11勝の湯舟を上回る輝きを見せたのがプロ8年目の仲田幸司だ。前年はわずか1勝に終わった背水の左腕が、チーム最多14勝と大躍進した。

先発陣の好投を支えたのが、守護神田村勤だった。左肘痛でシーズン前半で離脱するまで5勝1敗14セーブ。「人と違う球を投げたい。その一心だった。その球で打者を抑えられるのなら」と肩、肘への負担をいとわず、田村ならではの球を投げ続けた。守護神のおとこ気とラッキーゾーン撤去で広くなった本拠地が後ろ盾となり、リーグ唯一の防御率2点台(2・90)を記録した。【堀まどか】(敬称略)